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スポット

志自岐神社⁠‍‌‌​​‌‌‌​​‌‌​‌​​​

エリア
印通寺港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社
所在
長崎県壱岐市石田町

例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

石田の若宮にある村社で、もとは志自岐大明神と呼ばれた。十城別王をはじめ七柱を祭る。『壱岐神名記』は「名を改める以前は式内社」と記す。棟札で古いものは延宝二年(1674 年)八月の宝殿再建のときのもので、藩主鎮信の在判が残る。氏子の半ばを占める印通寺浦には、神功皇后が三韓征伐へ向かうとき、途中で引き返そうとした十城別命を責めて弓矢を後ろ向きに投げ打ち、矢が王を射通したという言い伝えがあり、その土地を「射通し(いとおし)」と呼ぶようになったと『続風土記』は伝える。例祭は十月二十六日で、神幸式を行い大神楽を奉納する。境内は四六〇坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

大正の記録では

大正の記録の編者は、印通寺の地名を「射通し」とする伝説に釘を刺している。これに付会するようなことはまったく荒唐無稽として採るべきではない、祭神の十城別王が征韓の従軍を忌避したかのように語る伝承も弁別する必要がある、というのである。そのうえで編者は、この社を式内の国津神社に当てたいと述べる。延喜式の主計式が島までの行程を海路三日とするのに従い、太宰府から筑前深江・肥前唐津を経て海を渡ってくれば、最初に着くのは石田の南東の海岸でなければならず、その海を望む丘の上に海上守護の社があるのは当然だから、というのが理由である。慶長十九年(1614 年)と元和三年(1617 年)の社領の判状には、大宮司宛のもののほかに「志自岐いち」宛のものがあり、市女を付属させていたほどの社であって尋常の小社ではなかったとも書いている。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第十節 石田村神社誌。当方が現代語に起こしました

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