たび壱岐でよく使う
島の外
「あん人はたび行たちょる」
このページの更新 10/3 22:05
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| 航路 | 状況 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 郷ノ浦 ⇔ 博多 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了郷ノ浦発 09:20(翌) → 博多 10:30 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了博多発 08:00(翌) → 郷ノ浦 09:10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る郷ノ浦発
博多発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 郷ノ浦 ⇔ 博多 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了郷ノ浦発 07:00(翌) → 博多 09:25 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了博多発 10:00(翌) → 郷ノ浦 12:20 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る郷ノ浦発
博多発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 芦辺 ⇔ 博多 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了芦辺発 14:25(翌) → 博多 15:30 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了博多発 10:45(翌) → 芦辺 11:50 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る芦辺発
博多発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 芦辺 ⇔ 博多 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了芦辺発 11:15(翌) → 博多 13:25 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了博多発 00:05(翌) → 芦辺 02:15 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る芦辺発
博多発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 印通寺 ⇔ 唐津東 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了印通寺発 08:20(翌) → 唐津東 10:00 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了唐津東発 08:40(翌) → 印通寺 10:25 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る印通寺発
唐津東発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 郷ノ浦 ⇔ 厳原 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了郷ノ浦発 12:35(翌) → 厳原 14:45 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了厳原発 15:25(翌) → 郷ノ浦 17:30 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る郷ノ浦発
厳原発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 芦辺 ⇔ 厳原 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了芦辺発 11:55(翌) → 厳原 13:00 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了厳原発 13:15(翌) → 芦辺 14:20 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る芦辺発
厳原発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 芦辺 ⇔ 厳原 | 通常運航予定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の便本日の便は終了芦辺発 02:25(翌) → 厳原 04:45 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 次の帰りの便本日の便は終了厳原発 08:50(翌) → 芦辺 11:05 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダイヤを見る芦辺発
厳原発
出典: 九州郵船 時刻表(2026/7/1〜10/31 版(JF Aダイヤ〔8/17〜9/30 適用〕・フェリー 基本配船・唐津 基本配船〔7/4〜10/25〕))を当方で転記(2026-08-19・サイト運営)。転記の誤りや改正がありえます。公式で確認してください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 勝本港発 → 辰の島 | 辰の島発 → 勝本港 |
|---|---|
| 9:00 | 11:40 |
| 9:30 | 13:40 |
| 10:30 | 14:10 |
| 11:30 | 15:10 |
| 13:30 | 16:10 |
| 14:30 | 16:40 |
| 15:30 |
現在、警報・注意報はありません(気象庁 取得 10/3 22:05)
| 地点 | 気温 | 風 | 湿度 | 1 時間の雨 |
|---|---|---|---|---|
| 芦辺 | 21.3℃ | 東北東 3.0 m | 69% | 0.0 mm |
| 石田 | 22.5℃ | 北東 4.7 m | ― | 0.0 mm |
暑さ指数(WBGT)芦辺(推定地点): いま 18.2 ほぼ安全(21:00)
明日(10/04)くもり 所により 朝 から 夜のはじめ頃 雨降水確率 最大 30%
今日(10/03)くもり降水確率 最大 10%
明日(10/04)小潮
今日(10/03)小潮
長崎県は全国平均より +8.1円/L(4.8% 高い)
次の休日当番医: 10/04(日) あしべクリニック 午前9時~午後5時
たび壱岐でよく使う
島の外
「あん人はたび行たちょる」
旅ん人壱岐でよく使う
島の外から来た人
「旅ん人で?」
ええらしか壱岐でよく使う
かわいらしい
「この子はええらしかねぇ」
ふうたん壱岐でよく使う
ほお
「ふうたんの落つるごた」
ぶえん壱岐でよく使う
塩をしていない、とれたての魚
「こん魚はぶえんよ」
いっきょい壱岐でよく使う
とても。程度を強める
「いっきょい寒か」
すらごつ壱岐でよく使う
作り話。うそ
「そりゃすらごつ」
いたち壱岐でよく使う
行って
「いたちきます」
いげ壱岐でよく使う
魚の小骨。とげ
「のでいげん立った」
いんにゃ壱岐でよく使う
いいえ
いるわん壱岐でよく使う
いやだ。かかわりたくない
うぜらしか壱岐でよく使う
うっとうしい。汚らしい
うてやう壱岐でよく使う
相手にする
「うてやわん」
えすか壱岐でよく使う
とても。および、怖い
えらかす壱岐でよく使う
だます
おおばんげーな壱岐でよく使う
大それた
おし壱岐でよく使う
お前。対等か目下の相手に
おり壱岐でよく使う
私。一人称
おろよか壱岐でよく使う
よくない。粗末だ
かくべつ壱岐でよく使う
大したことがない
「かくべつなもんじゃった」
きびしょ壱岐でよく使う
急須
ぎゅーらしか壱岐でよく使う
騒々しい。大げさだ
ぐーらしか壱岐でよく使う
蒸し暑い
けねやね壱岐でよく使う
家じゅう。家族みんなで
「けねやねで出かける」
ごっとり壱岐でよく使う
あるだけ全部
「ごっとり持っていく」
しのべる壱岐でよく使う
片付ける。しまう
すそご壱岐でよく使う
末っ子
すだむる壱岐でよく使う
器の中身を最後まで出しきる
「味噌汁ばすだめち」
そびく壱岐でよく使う
引っ張る
「そえんそびくな」
たましなし壱岐でよく使う
やる気のない人
たんぐわる壱岐でよく使う
ひどく驚く
にき壱岐でよく使う
そば。近く
「駅んにき」
にくじゅー壱岐でよく使う
相手の嫌がることを、わざとする言動
へっぱく壱岐でよく使う
余計な差し出口
「いらんへっぱくばするな」
あーた壱岐でよく使う
あなた。呼びかけに使う
ばってん九州で広く使う
けれども
よか九州で広く使う
よい
「天気んよか」
けん九州で広く使う
〜だから。理由をつなぐ
「雨の降っとるけん」
ぼうぶら九州で広く使う
かぼちゃ
壱岐のもう一つの名は「天比登都柱」
『古事記』は、伊伎島(壱岐島)にはもう一つ名があると書いています。天比登都柱(あめひとつばしら)。海の中に離れて一つ立つ柱、という意味に取るのが古くからの読み方です。『旧事紀』も同じ名を伝えています。玄界灘にぽつんと浮かぶ島の姿を、そのまま名にしたことになります。
島の名を「ゆき」と読む説
壱岐の名の由来には、潮の白い泡が雪のようだから「ゆき」だ、という説があります。島に伝わる言い方では、本宮村の海辺に「雪の島」と呼ぶ島があり、その小さな地名が島全体の名に移ったのだといいます。地名は小さな所の名から国の名へ広がることが多い、というのが編者の見立てです。
律令の壱岐は「辺要」の島
律令の決まりでは、陸奥・出羽・佐渡・隠岐と壱岐・対馬を合わせて「辺要(へんよう)」と呼びました。国のはしの、守りの要という扱いです。壱岐と対馬の二島だけを指して「二島辺要」という言い方もありました。玄界灘の小さな島が、都から見て国境の最前線だったことが、この一語に表れています。
六六四年、島に防人と烽が置かれた
『日本書紀』天智天皇三年(六六四年)に、対馬・壱岐・筑紫へ防(さきもり)と烽(とぶひ)を置いたとあります。烽は、狼煙で急を知らせる仕掛けです。白村江の戦いの翌々年にあたり、島は海の向こうを見張る役目を負いました。
十四か所の埼を、島の人三三〇人で守る
承和二年(八三五年)、大宰府が朝廷へ願い出ました。壱岐は狭くて人が少なく、急なことに応じきれない。島の徭人(ようじん)三三〇人に武器を持たせ、十四か所の要害の埼を守らせたい、と。願いは許されました。島を守ったのは、よそから来た兵ではなく、島に住む人だったことになります。
亀の甲で占う役は、伊豆五人・壱岐五人・対馬十人
『延喜臨時祭式』は、宮中で占いを担う卜部(うらべ)を、伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人採ると定めています。亀の甲を焼いて吉凶を読む亀卜(きぼく)の技が、この三つの島に伝わっていたためです。全国から二十人だけの役に、壱岐が四分の一を占めていました。
占いの道で都に立った、壱岐生まれの伊岐是雄
石田郡の生まれの卜部是雄(うらべのこれお)は、のちに姓を伊岐(いき)と改め、東宮の宮主となりました。占いの道でその要を究めた人として、当時の記録は「日者独歩」と評しています。貞観五年(八六三年)に外従五位下、のちに従五位下。五十四歳で亡くなりました。
七三一年、島にはじめて医師が置かれた
『続日本紀』天平三年(七三一年)に、大宰府に命じて壱岐へはじめて医師を任じた、とあります。律令では国ごとに博士一人・医師二人を置くのが決まりで、医師は診察と治療を担いました。壱岐・対馬などの博士と医師は、いったん任じられると生涯替わらない時期があり、のちに任期が定められました。
島に置かれた駅馬は五疋
律令の道は大路・中路・小路に分かれ、駅に置く馬の数が決まっていました。大路二十疋、中路十疋、小路五疋。壱岐は小路で、『延喜兵部省式』も壱岐島の駅馬を五疋と記します。渡海の使いを送る駅子には、一日あたり稲四把が支給されました。
甲はあったが、胄が無かった
貞観十二年(八七〇年)正月、朝廷は壱岐島へ胄(かぶと)と平胡簶(矢を入れる具)を二百具ずつ送りました。島にはもともと甲(よろい)はあったのに、胄が無かったためです。大宰府が島からの届けを受けて願い出た、と記録は伝えます。
都へ贈る菓子に、壱岐の木蓮子
『大膳式』に、諸国が朝廷へ納める菓子の定めがあります。筑前の山々と壱岐などの島から出る木蓮子(もくれんじ)のうち、味のよい三つを選んで年ごとに納めよ、と書かれています。島の産物が、都の膳に上っていたことになります。
三つ子を産んだ島の女に、稲三百束と乳母
仁寿三年(八五三年)五月、大宰府が朝廷へ報告しました。壱岐の女性が三つ子の男の子を産んだ、と。朝廷は正税三百束と乳母一人を与えました。育てるのが難しい子だくさんに、公の手当てが出た記録です。
四十年、夫の墓を守った女性に田租の免除
宝亀三年(七七二年)の記録です。壱岐郡の直玉主売(あたいのたまぬしめ)は十五歳で夫を亡くし、再び嫁がないと誓って、四十年あまり夫の墓を守り続けました。朝廷は位を二階級と田租の免除を与え、それは生涯続いたと伝えます。
応天門の変で流された人が、戻ってまた流された
貞観八年(八六六年)、応天門を焼いた罪で流された五人のうち、伴秋実が壱岐へ送られました。元慶四年の恩赦で許されて帰ったものの、周防国の届けによれば、赦しの前に配所を抜け出していたことが分かります。結局、護送の者を付けられて壱岐へ戻されました。
幕末の島の家数は七六五五軒
『壱岐名勝図誌』は、島じゅうの家の数を七六五五軒と記します。うち村々が五八八七軒、浦々が一七六八軒。村と浦を分けて数えているのは、畑を耕す家と海に出る家で、暮らしの立て方が違ったからです。
岳ノ辻の遠見番所には、侍一人と足軽二人
島でいちばん高い岳ノ辻には、海を見張る遠見番所が置かれていました。詰めていたのは番頭の侍が一人と足軽が二人で、常に勤番して急に備えました。若宮島にも同じ構えの番所があり、武具と番船が置かれていたと記されています。
島の神社誌を書いたのは、島の神職だった
『壱岐神社誌』を著した後藤正足は、志原村の大国玉神社の社掌をつとめた人です。自分が仕える社の項に、社掌として自分の名を記しています。島の神社を古書と現地に照らして調べたのは、外から来た学者ではなく、島の神職でした。
あとの神社誌は、前の神社誌を正すために編まれた
昭和に編まれた『壱岐国神社誌』の序は、先行する『壱岐神社誌』を、記述が込み入って偏りが多く、私見や臆説が混じっていると評しています。読者に史実を誤らせないために新しく編む、というのが編纂の動機でした。島の神社研究は、前の本を乗り越える形で重なってきたことになります。
幕末にいちばん人が多かったのは可須村
『壱岐名勝図誌』は村ごとに人の数を挙げますが、数が読めるのは二十四か村のうち二十か村です。当方が比べると、もっとも多いのは可須村の二五九四人(いまの勝本町)、もっとも少ないのは川北村の四一〇人(いまの芦辺町)。同じ島の村で、六倍を超える開きがありました。
幕末の村々の社を足すと七七六社
『壱岐名勝図誌』は、村ごとに神社と仏閣の数を書いています。二十四か村ぶんの神社を当方が足すと七七六社、数の読める二十か村ぶんの仏閣は二九〇所でした。原典は島の合計を書いていないので、この数は当方の集計です。
井の名「借水」は日照りの年に生まれた
諸吉村(いまの芦辺町)に「借水」という井があります。日照りのたびに近くの里から競って人が来て、この井の水を借りることが度々あった。だからこの名が付いたのだと『壱岐名勝図誌』は伝えています。
渡良村の海の幸は十一品
産物の記述に海の幸が載る村は、二十四か村のうち六か村です。当方が品数を比べると、いちばん多いのが渡良村(いまの郷ノ浦町)で、和布・搗布・鹿尾藻・海苔・海松・ところてん・うに・かせ・さざい・蜷・鮑の十一品が並びます。
名産と書かれたのは、諸吉村の大根だけ
産物の記述は二十四か村ぶんあります。当方が確かめると、「なかでも大根が名産である」と言い切っているのは諸吉村(いまの芦辺町)ひとつです。ほかの村は作物を等級で並べるだけで、抜きん出た一品を挙げていません。
掘り出した碑石を、四年のちに埋め戻した
延宝五年(1677 年)、天手長男神社の鉢形の頂の土中から碑石が掘り出され、唐鏡三面も出ました。ところが掘り出してから災いが続いたので、天和元年(1681 年)に藩の命でもとどおり埋め戻し、榊を目印に立てたと『壱岐名勝図誌』は記します。
遷宮を誰が勤めるかの争いに、城代が裁定を下した
『壱岐神社誌』は、天道神社の遷宮を誰が勤めるかで別当と祠官が争った顛末を、書き付けごと写しています。宝永七年(1710 年)、城代の水野要人が裁定を下しました。御神体四体を宮寺と社人が二体ずつ守って宝殿へ移し、加持と清祓と大神楽は例のとおり社人が勤める、と。
昭和の島の社、一七三のうち一三六は無格社
『壱岐国神社誌』が社格を添えて並べる島の神社を当方が数えると一七三社です。内訳は無格社が一三六社、村社が三三社、郷社が三社。国幣中社はただ一社、目録の先頭に主要社として置かれた住吉神社だけでした。
例祭の月は、秋に寄っている
『壱岐国神社誌』から例祭の日が読める社は一一〇社あります。月ごとに当方が数えると、十月が三五社でいちばん多く、九月から十一月までで八三社を占めました。秋に寄っている、というのは当方が数えて見た形です。
島でいちばん多くの社が祭る神
『壱岐国神社誌』に出てくる祭神を当方が数えると三九柱です。祭る社が最も多いのは素盞鳴尊で二二社、次いで大己貴命と伊弉冊尊が一六社ずつでした。素盞鳴尊は祇園社・天王社の系統として、疫病を払う神に祭られてきました。
六三〇年、筑紫の神石が月讀神社へ
島の年表は、当方が史料から集めたものです。当方が比べると、いちばん古い年は舒明天皇二年(630 年)。伊吉公乙等を筑紫の怡土県へ遣わして神石を求め、その一片を月讀神社へ納めたと『懐中暦』が伝える ―― と『壱岐国神社誌』は書いています。