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池を汲み干して雨を乞う

旱魃のたび島じゅうの人が池へ集まり、三日でも五日でも水を汲み上げ続けました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

湯岳村に伝九郎池という池があります。伝えによれば、むかしここは二つの郡のあいだを小舟が行き来する水路で、永仁年間の大地震で地が揺り合わさって池になりました。近世まで深さは三丈余りありましたが、年月とともに埋まって、幕末には二間余りまで浅くなっています。もとの名は「田縁が池」で、伝九郎という者がここに身を投げてから、伝九郎池と呼ぶようになったといいます。

水路だったという話には、証拠が添えられていました。池の底には板や柱のようなものが沈んでいて、茶の葉のようなものも多く出る。近くの幡巴川の川底には大きな帆柱がある。それは里の人がよく知っていることだ、と書かれています。

この池は、どんな旱魃でも干上がりませんでした。だから雨を乞うときは、ここへ来ます。

島じゅうから人が集まり、つるべや手桶を思い思いに持ち寄って、水を汲み上げました。目的は池を干すことです。三日、あるいは五日七日と続け、夜はかがり火を焚いて明かし、昼はあちこちに日覆いを立てて、昼夜休みません。人の声は天に響き、つるべの音は地に轟いた、と撰者は書いています。そして、干し切るところまで行かないうちに、必ず雨が降ったといいます。汲んでいるあいだに、池の底から例の板や柱が掘り出されることもありました。

ここで撰者は、めずらしく強い調子で意見を書き添えます。雨を願うのは竜神や水神を祭ることであるはずなのに、その神のいる池を干して怒らせるのは筋が通らない。しかもこの行事のたびに、溺れて死ぬ者が出ている、と。そのうえで、皇極天皇が南淵の川原で天地四方を拝んで雨を祈った例を挙げ、『延喜臨時祭式』に祈雨の社が八十五座あることを引きます。祈るのが本筋であって、力ずくで降らせるものではない、という言い分でした。

それでも、この雨乞いは続いていたはずです。撰者がわざわざ諫めを書くのは、やめさせられていないからです。水の乏しい島で、田を干上がらせるわけにいかない人たちが、神を怒らせてでも雨を呼ぼうとした。その手つきが、池の寸法や地震の伝えと同じ調子で書き残されています。

なお、ここに引いた記述には、機械で読み取れなかった文字が原文の写しに残っている箇所があります。判読できた文だけを引用し、残りは当方が要約しました。

原文から

つるべ・手桶のような物を思い思いに持ち来て、池を干そうとすること三日あるいは五日七日、夜はかがりを焼きあかし、昼はここかしこに日覆いをしつらい、日夜たゆみない。その人勢の声は天に響き、つるべの音は地にとどろく。

巻之六 壱岐郡湯岳村之部 伝九郎池

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之六 壱岐郡湯岳村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

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