今日の壱岐ikijima.com

このページの更新 9/6 12:05

文久元年の壱岐

幕末に藩の命で編まれた島の地誌が、島の名の由来から狼煙台の場所まで書き残しています。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

嘉永三年(1850年)、平戸藩の前の藩主 松浦熈が、湯岳観上宮の神主だった後藤正足に島の地誌を作れと命じました。正足は領内をくまなく歩き、弟の尚盛に景色を描かせ、書物に見えるかぎりの故事と、里の老人が語ることまで書き取って、十一年後の文久元年(1861年)に二十五巻を仕上げます。これが『壱岐名勝図誌』です。第一巻が島全体にかかわる事実を集め、第二巻から先は一つの村に一巻を当てました。

正足は凡例で、書き方の方針をはっきり断っています。里の言い伝えには怪談のたぐいも混じるけれども、長く語り継がれてきたものだから捨てはしない、そのまま載せて子どもの退屈しのぎにする、と。この一行があるおかげで、役所の記録と里の人が信じていたことが、同じ紙の上に並んでいるのです。

第一巻は、島の名の由来から始まります。『古事記』は伊伎島の別名を天比登都柱(あめひとつばしら)と記し、『日本書紀』は対馬や壱岐を潮の泡が凝り固まってできたものと書きました。後世の学者は、波が高く潮の白いさまが雪に似ているから「ゆき」なのだと説き、本居宣長は、この島で神祭りをするときの斎忌(ゆき)から来たのではないかと述べています。島の人は島の人で、本宮村の海辺に「雪の島」という島があり、そこの名が島全体に広がったのだと伝えていました。正足は諸説を並べたあと、地名は小さな場所の名から国の名へ移ることが多いから、この島もそうであろう、と自分の考えを付けています。

卜部の記事も、この巻にあります。神功皇后の御代、中臣烏賊津連の子の真根子が壱岐直となり、これが壱岐県主と壱岐卜部の始祖になりました。宝亀四年(773年)には壱岐と対馬の卜部が、宇佐八幡の託宣が本当かどうかを占うよう命じられています。貞観のころの伊岐是雄は、亀の甲を焼いて吉凶を読む道を究めた人として『三代実録』に名が残り、東宮の宮主から従五位下まで進みました。『延喜臨時祭式』は、宮主に任じる卜部を伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人と定めています。

守りの記事も残っています。天智天皇三年(664年)に対馬と壱岐と筑紫へ防人と烽が置かれ、承和二年(835年)には大宰府が、島は狭くて人が少なく急場に耐えられないと訴え、島の徭人三百三十人に武器を持たせて十四か所の要害を守らせたいと願い出て許されました。その十四か所がどこだったかは、正足の時代にはもう分からなくなっていて、「関」の名が残るのは箱崎と池田村だけだと書いています。駅馬は五疋、島は小路の扱いでした。

元寇の記憶は、思いがけない形で残っていました。第一巻の郷村の説に、子どもを叱るとき「蒙古国」「高麗国」「黒船」「唐人」と言っておどすのは、そのときの言葉の残りだと伝える、とあります。文永十一年(1274年)の襲来から六百年近く経った幕末の島で、その言葉はまだ生きていたことになります。

以下の七本は、この本と、後藤正足がのちに書いた『壱岐神社誌』から起こした読み物です。書かれているのは幕末までの島であって、いまの姿ではありません。それでも、いま行ける場所や、いまも続いている習わしに着地する話を選びました。

原文から

野史や口碑のようなものは、怪談奇話がないわけでもないが、それもみな里の老人が長く伝えてきた説であるから、強いて捨てるべきものでもない。いまそのままに載せて、児童の欠伸をふせぐ。

凡例

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之一 事実伝説。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

読み物の一覧へ戻る壱岐島とは二十四座(式内社)

あそぶ