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このページの更新 9/6 12:05

石を返せと迫った河童

淵の石を寺の橋にしたところ、奉行の家へ夜ごと苦情が来たと里は伝えていました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

川北村に皿川淵という淵があります。四間一尺ほどの広さで、深さは分からないといい、上の滝は三間余り。落ちた水は土や石の下をくぐって流れ、地表には出てきません。森が茂って昼でも暗いので、人は恐れて近づかなかったと書かれています。

その淵のほとりにあった石を、誰かが持ち出しました。運んだ先は深江村の安国寺で、門前の橋にしたのです。

すると、奉行の家に夜な夜な河童が来るようになりました。石垣を崩すような音を立て、大勢の人声を出し、ときには験者に乗り移って、石を返してほしいと訴えたといいます。『壱岐名勝図誌』は、これを里の俗説として、そのまま書き留めました。誰が石を返したのか、返さなかったのかは書いてありません。

もう一つ、河童の出てくる項があります。国分村の仏淵です。袖取川の下にある淵で、村の人は、むかしここはたいそう深く、ときどき仏のようなものが現れたから仏淵というのだ、淵の中の石はその仏の座石だ、と話していました。

ここで撰者は括弧を開きます。この出現するものは仏ではない、河童の化けたものであろう、と。伝えを消しはせず、しかし自分はそう見ない、と書き分けたわけです。

二つの項を並べると、この本の作り方が見えます。凡例に、里の言い伝えには怪談のたぐいもあるが、長く伝えられてきたものだから捨てはしない、と断ってありました。捨てない代わりに、信じているのは誰で、疑っているのは誰かを、括弧で分けています。奉行の家に河童が来た話には括弧が付いていません。仏淵には付いています。撰者が線を引いた場所が、そのまま残っているのです。

石を運ばれた側の安国寺は、いまも芦辺にあります。正式には老松山安国海印禅寺といい、同じ本の巻之七に、暦応二年に前の征夷大将軍の建立によるものだと記されています。開山は無隠元中和尚で、元へ渡って天目山の中峰和尚に学んだ人でした。門前の橋の石が皿川淵から来たものかどうかは、この本より先には書かれていません。

原文から

その後 奉行人の所に夜な夜な河童が来たり、あるいは石垣を崩すごときの音をなし、あるいは大勢の人声をなし、あるいは験者に託りて、その石をかえさんことを乞うと云々。

巻之三 壱岐郡川北村之部 皿川淵

この出現するものは仏にはあらず。河童子の化する所ならん。

巻之五 壱岐郡国分村之部 仏淵

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之三 壱岐郡川北村之部/ 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之五 壱岐郡国分村之部/ 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之七 深江村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 9/6 12:05

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