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石を返せと迫った河童
川北村に皿川淵という淵があります。四間一尺ほどの広さで、深さは分からないといい、上の滝は三間余り。落ちた水は土や石の下をくぐって流れ、地表には出てきません。森が茂って昼でも暗いので、人は恐れて近づかなかったと書かれています。
その淵のほとりにあった石を、誰かが持ち出しました。運んだ先は深江村の安国寺で、門前の橋にしたのです。
すると、奉行の家に夜な夜な河童が来るようになりました。石垣を崩すような音を立て、大勢の人声を出し、ときには験者に乗り移って、石を返してほしいと訴えたといいます。『壱岐名勝図誌』は、これを里の俗説として、そのまま書き留めました。誰が石を返したのか、返さなかったのかは書いてありません。
もう一つ、河童の出てくる項があります。国分村の仏淵です。袖取川の下にある淵で、村の人は、むかしここはたいそう深く、ときどき仏のようなものが現れたから仏淵というのだ、淵の中の石はその仏の座石だ、と話していました。
ここで撰者は括弧を開きます。この出現するものは仏ではない、河童の化けたものであろう、と。伝えを消しはせず、しかし自分はそう見ない、と書き分けたわけです。
二つの項を並べると、この本の作り方が見えます。凡例に、里の言い伝えには怪談のたぐいもあるが、長く伝えられてきたものだから捨てはしない、と断ってありました。捨てない代わりに、信じているのは誰で、疑っているのは誰かを、括弧で分けています。奉行の家に河童が来た話には括弧が付いていません。仏淵には付いています。撰者が線を引いた場所が、そのまま残っているのです。
石を運ばれた側の安国寺は、いまも芦辺にあります。正式には老松山安国海印禅寺といい、同じ本の巻之七に、暦応二年に前の征夷大将軍の建立によるものだと記されています。開山は無隠元中和尚で、元へ渡って天目山の中峰和尚に学んだ人でした。門前の橋の石が皿川淵から来たものかどうかは、この本より先には書かれていません。
原文から
その後 奉行人の所に夜な夜な河童が来たり、あるいは石垣を崩すごときの音をなし、あるいは大勢の人声をなし、あるいは験者に託りて、その石をかえさんことを乞うと云々。
この出現するものは仏にはあらず。河童子の化する所ならん。