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佐肆布都神社
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- 長崎県壱岐市
式内社
この社について
箱崎の大崎右触にある社で、もとは平江大明神と呼ばれた。武甕槌命と経津主命をはじめ十柱を祭る。『壱岐国神社誌』は「延喜式内の社である」とだけ記す。延喜式神名帳の壱岐郡には佐肆布都神社が二座あり、その一つに当てられてきた社である。例祭は九月二十八日で、神幸式を行い大神楽を奉納する。境内は六四五坪。
江戸の記録では
明暦二年(1656 年)、藩が社前の入り江の潮路を塞いで新田を開こうとしたところ、築いた堤が夜ごとに崩れた。そこでこの社と八幡宮と乙宮に高三石の神領を寄せると誓願したら堤が成った、と『壱岐名勝図誌』は伝える。同じ年の六月に御殿を造営し、寛文六年(1666 年)に約束どおり神領が寄附された。この入り江は明暦より前は瀬戸浦へ続く広い曲江だったと記されている。鳥居から三十五間半の田の中には浜殿の跡が残り、松が一株生えていた。『続風土記』は跡地を東西五間二尺・南北六間一尺と記すが、幕末に測ると東西五間・南北五間半に縮んでおり、年を経て崩れ田になったのだろうと書き添えている。境内は椎と槌が枝を連ね、東は魚出川ごしに乙宮の森と瀬戸の渡しがほの見え、眺めの無双の地だという。
大正の記録では
この社の旧称に、大正の記録はもう一つの名を伝えている。社記の一つ「箱崎本社・末社由来」に「鹿嶋大明神」と記すもので、編者は、延宝四年(1676 年)より前から祭神が武甕槌神とされ、社号もまた鹿嶋大明神と称したのなら、式の佐肆布都神社に当てることに非の打ちどころは無いと書く。ただし延喜式は同じ社号を二つ載せており、もう一方をどこに当てるかは今にわかに断じがたいとして、新城村字打田の指淵大明神が本来の佐肆布都神社で後に若宮神社へ移られたのか、あるいは若宮神社がもともと佐肆布都神社であって後年の配祀で社号が影を潜めたのか、と二つの可能性を並べたまま残している。
二十四座との対応
延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。
- 第 10 座 同佐肆布都神社筆頭