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スポット

國津意加美神社⁠‍​‌​​​​​​‌​​‌​​​‌

エリア
郷ノ浦港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社、交通・移動
所在
長崎県壱岐市郷ノ浦町
電話
0920-47-0675

式内社 例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
情報: Google(電話・サイト・所在)/ 出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 9/8 12:04

この社について

郷ノ浦の宗廟にあたる社で、延喜式神名帳の石田郡「国津意加美神社」に当てられる。壱岐島二十四座の一つ。延宝の改めより前は妙見宮と呼ばれ、素盞鳴尊が韓国からの帰りに郷ノ浦の江上へ上陸し、のちにここへ宮を建てたと社記は伝える。平戸藩主がとりわけ厚く崇敬して「御願元」と呼び、定例の祭には幣使を、式日には亀丘城の城代を代拝に立て、藩主が島を巡見するときは自ら参向した。そこから「直参の社」ともいう。棟札は天文十四年(1545 年)から天保十五年(1844 年)まで六代の藩主の在判が残り、いまの社殿は天保十五年のものである。仁寿元年(851 年)に正六位を授けられて以後、たびたび神階を進められた。例祭は十月十五日で、神幸式を行い神迎神楽を奉納する。境内は九七五坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

『壱岐名勝図誌』の撰者は、この社の名の読みに正面から異を唱えている。「意」の字は昔から「オ」の仮名に使い、「イ」には使わない。出雲の意宇郡も「オウ」と読む。河内・和泉・越前の意賀美神社もみな「オカミノヤシロ」と唱える。だから世に「イカミの神社」というのは誤りで、「くにつおかみ神社」と称すべきだ、という。祭神を大己貴命とするのも社号から見ると疑わしく、高龗・闇龗の類ではないかとも書く。社の西に「オホカミ」(大上)という地名が残ることも根拠に挙げている。祭りの様子も細かい。九月十五日には江の浦へ神幸し、肥前の呼子と鎌田から掛魚二掛を献じ、拝殿で庖丁の規式を勤めた。残った魚は酒粕と塩で鱠にして土器に盛り、祠官らが神酒とともに頂戴する。そのあいだ呼子と鎌田の者が棒を持って戸口を固め、参詣の人が上がるのを防いだという。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十三 武生水村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

大正の記録は、社領の寄進状に一つ疑いを差しはさんでいる。社記と『名勝図誌』は慶長十三年(1608 年)に日高甲斐守喜の判状があったと記すが、甲斐守の判状はほかに例がなく、しかもこの人は文禄二年の正月七日に朝鮮出兵の平壌の松山城で戦死しているから、その年の署名はありえない、松浦豊後守信実の誤伝であろう、という。造営のたびに国守が銀を献じたのは、寛文三年(1663 年)に出された松浦家の条目が「式内大社は白銀七枚、同小社は五枚」と寄進の合力を定めていたことによる。編者の後藤正足は、社の西の丘陵続きを「オフガミ」と呼ぶことからこの社を式内の国津意加美神社に当てる考えを先に思いついていたが、大正十年(1921 年)の夏に『名勝図誌』の著者も同じことを書いているのを見つけ、剽窃と疑われるのを恐れたと書き添えている。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第一節 武生水村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

この場所が出てくる読み物

出典: 幕末から大正の地誌(『壱岐名勝図誌』ほか)。当方が現代語に起こしました

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