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スポット

爾自神社⁠‍​​​‌​‌‌​​‌‌‌​​​‌

エリア
郷ノ浦港周辺 湯本湾周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社
所在
長崎県壱岐市郷ノ浦町
電話
0920-47-0675

式内社 例祭月: 3月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

長峰の宮山にある村社で、もとは東風(こち)大明神と呼ばれた。級長津彦神と級長戸辺神と息長帯姫命を祭り、大正五年(1916 年)に大神宮神社と福宜山神社を合祀した。神功皇后が三韓征伐のとき順風を祈らせたところ、たちまち東風が起こって渡海できたので、帰朝ののちこの場所に風の神を祭らせたと社記は伝える。社のなかの大きな石を東風石と呼び、土地の人が東風を祈って霊験があったと言い伝えられてきた。延喜式神名帳の石田郡「爾自神社」に当てられ、壱岐十七社の一つでもある。弘仁二年(811 年)の創建で、仁寿元年(851 年)に正六位上の位を授けられた。維新より前の例祭では神幸式と流鏑馬と大神楽を行い、城代の代参として馬廻り衆が参向した。正殿を新築するたびに藩主から白銀五枚が献納された。例祭は三月十三日。境内は一一〇四坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

風の神を祭る社なので、朝鮮通信使が勝本に足止めされるたびに順風の祈願が持ち込まれた。『壱岐名勝図誌』は社記からその記録を写している。享保四年(1719 年)十二月、信使が勝本浦に滞留したため、十五日から社家八人が参籠して大神楽を奏し、二十一日に順風を得て出船した。返礼として藩から白銀五枚と鳥目一貫文と米三俵が納められた。延享五年(1748 年)三月にも同じ祈願がある。宝暦十三年(1763 年)十一月は逆風で足止めが続き、十二月朔日の夜にあらためて十人で大神楽を奏したところ三日に出帆でき、五日に亀尾城代の磯野定兵衛が代参に来た。翌年六月の帰りの船のときも祈っている。社殿の北にある東風石は縦一丈三尺余、横一丈二尺の大石で、むかしは宝殿の内に作り込んであったのを中世に今の形にしたと伝えられていた。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十八 石田郡長嶺村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

大正の記録は、この社の社務をめぐって祠官どうしが争った文書を写している。寛文五年(1665 年)四月十一日付の吉野采女佐の訴えによれば、有安村の東風大明神の神主職は吉野家が代々兼帯してきたが、遠方のため軽い神事を験者に助役として任せていた。その験者が明暦四年(1658 年)に神職を召し放たれて所払いになったので、大浦の修験者であった松本市太夫左近に宮方を預けた。ところが市太夫は裁許状を望んで京都への添状を乞い、まだ七社の神主も受けていないのだから差し控えよと諭されても承知せず、寛文四年(1664 年)に吉田家の裁許状を受けた。寛文三年(1663 年)の冬には、祭礼に代参も流鏑馬も無い、御竈祭にも加えてくれないと申し立て、有安村の檀家をことごとく渡せば堪忍すると言い出したという。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第四節 沼津村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 神功皇后を祭る社(9 社)

この場所が出てくる読み物

出典: 幕末から大正の地誌(『壱岐名勝図誌』ほか)。当方が現代語に起こしました

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