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スポット

彌佐支刀神社⁠‍​‌‌‌​​​‌‌​‌‌​​​​

エリア
郷ノ浦港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社
所在
長崎県壱岐市郷ノ浦町
駐車場
あり Tweet シェア

式内社 例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

志原の大原触、宮ノ原にある村社で、延喜式神名帳の石田郡「弥佐支刀神社」に当てられる。二十四座の一つ。日本武尊を祭り、世間では八剣大明神と呼ばれてきた。『壱岐図』は「志原村の鳥山ノ剣ノ元にある。内殿・御殿・上屋・廊下・拝殿・神饌殿がある。定例の祭は九月二十一日」と記す。『続風土記』は、はじめ神度丘にあり、熱田大明神と同体であるから社の慣例では八剣大明神と呼ぶのだと伝える。社記には弘仁二年(811 年)十月の鎮座とある。十一月二十九日には神迎神事があり、大神楽を奉納する。例祭は十月二十一日で、神幸式を行い神楽を奉納する。境内は五五八坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

幕末の記録は、この社を鳥山の剣元にある「八剣大明神」として書く。もとは神度丘という所に鎮座していたと伝えるが、神度丘と八剣山との間は田をはさんで百七十間あり、いつ今の地へ遷したかは分からないという。社の西には花川が流れ、社前の川には石橋が架かり、鳥居のかたわらには株の太さ一丈八尺あまりの影向松が茂っていた。石鳥居は延宝六年(1678 年)の造立、御殿の造営は寛文十二年(1672 年)で、藩主の在判の棟札が残る。拝殿には享保七年(1722 年)に掛けたという「忠孝」の二字の横額があった。神領は剣田九畝二十四歩。祭りは九月二十日の夜に大神楽、翌日に藩の代参があって神輿を鍛冶川の御旅所へ渡し、その日のうちに還して流鏑馬を行い、村と隣村の老若が群れ集まって市が立った。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十一 石田郡志原村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

社号の刀の字をどう読むかから、大正の記録は考証を起こしている。編者は、刀は万葉仮名の「と」であって刀剱の意義を持たないとして、社号を御崎門と解し、深江村の鶴木にあった「との宮」姫大明神こそ発祥の地であろうと説く。海に突き出た岬のあたりに鎮座する との宮 の意だからである。ある系譜が、武内宿禰の身代わりとなった真根子連を身殺き人になぞらえてこの社の祭神とする説にも触れ、その裔女である直玉比賣の貞節が光仁天皇の朝に旌表され、没後に祖神へ合祀されて姫大明神と称するにいたったのではないか、と推した。元禄十三年(1700 年)に旧社地である神度丘からいまの宮の原へ遷座したこと、天文十一年(1542 年)の記事に「志原村八剣祠官後藤次郎左衛門」と見えることも書き留めている。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第十一節 志原村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

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