スポット
大國玉神社
- エリア
- 郷ノ浦港周辺
- カテゴリ
- 歴史・文化、神社
- 所在
- 長崎県壱岐市郷ノ浦町
式内社 例祭月: 10月
この社について
志原の大原にある村社で、延喜式神名帳の石田郡「大国玉神社」に当てられる小社。二十四座の一つで、もとは田原天神と呼ばれた。大己貴神と大后神と事代主神に、菅贈相国ほかをあわせ祭る。弘仁二年(811 年)の創建と伝え、仁寿元年(851 年)に正六位上の位を授けられ、以後たびたび神階を進められた。明治四年(1871 年)より前の氏子は大原触の五十戸だけだったが、同じ村の彌佐支刀神社の氏子を分けて大原村西触の全部と平人触の一部を加え、百五十四戸に増やした。例祭は十月二十五日で、神幸式と流鏑馬を行い大神楽を奉納する。境内は六三九坪。
江戸の記録では
古老の話として、この社の門前に大きな市が立っていたことが書き留められている。祭礼には無い品が無いほどの市で、こちらの値が高ければ国分の市へ出て買い調え、国分が高ければこちらへ来て調えた。宮島の市や鏡の市のようなものだった、という。幕末にもその名残の地名が残っていた。石鳥居から八間のところが「市場」、山際から東へ一百六間が「注連本」、そこからさらに東へ九十二間が「馬洗川」で、市場の馬を洗ったからその名が付いたと伝えられる。一の鳥居が立っていたという「鳥居山」の地名もあり、社のあたりには折れた古鳥居が残っていた。台石は左右とも今の鳥居のかたわらにあり、周囲七尺三寸と七尺八寸五分、二つの間は一丈五尺だったと『壱岐名勝図誌』は測って記している。神領は水田二畝と畠五畝だった。
大正の記録では
境内から出た土器と古墳を、大正の記録は祭神の考えに結びつけている。明治十年(1877 年)六月に境内へ愛宕神祠を建てる工事のとき祝部土器が出土し、その後もしばしば各種の出土品を得て、大正十三年(1924 年)三月には弥生式土器の破片も出た。境内には稍大型の円形古墳があり、西へ続く森林は古来 祝部山と呼ばれて大型の前方後円墳がある。編者は、この古墳の主と祭神とのあいだに密接な縁故があるのではないかと考え、天神と国魂を連想するとき国魂の神である天一柱命を想起せずにいられないと書いて、最初の天神をこの神と仮に想定した。ただし文献の徴すべきものは無く、古墳と土器から推し量った見立てにすぎないと自ら断っている。文化二年(1805 年)九月には神輿を調製し、桑本離宮への神幸を再興した。
二十四座との対応
延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。
- 第 20 座 大國玉神社筆頭
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