スポット
七郎神社
- エリア
- 印通寺港周辺
- カテゴリ
- 歴史・文化、神社
- 所在
- 長崎県壱岐市石田町
例祭月: 11月
この社について
池田にある村社で、七郎権現、七郎健児宮、稲喰社などと呼ばれてきた。素盞鳴尊を祭る。元禄五年(1692 年)の『神社帳』には「上池田の七郎権現。昔からのもので勧請した年数はわからない。定例の祭は九月二十八日」とあり、深江大明神の祠官である後藤氏が代々奉仕した社である。棟札で古いものは元禄九年(1696 年)の宝殿再建のとき。五島の社家に伝わる口伝では、藩主鎮信が朝鮮出兵から帰陣したとき持ち帰った鐘七つのうち一つがこの社に寄進されたという。社号の由来として、検地の折に馬に稲を食われた咎で打ちすえられた馬丁の七郎が、憤って馬を殺し自らも命を絶ったという話が『続風土記』に載る。例祭は十一月二十八日で、神幸式を行い大神楽を奉納する。境内は一〇坪。
大正の記録では
参拝を拒んだ祠官の問答を、大正の記録は『続風土記』から写している。寛保二年(1742 年)三月三日、著者の吉野常陸介秀政はこの社へ社参したが拝まずに退き、老松天神の祠官に「社参して拝せざるは如何」と問われて「不佞いやしくも天児屋根命の伝統を継げり、何とて馬丁と馬とを拝せんや」と答えた。権現の号を軽んじてよいのかと重ねて問われると、勅許を得ずに権現と称するのが最も非である、まして七郎宮の号はと応じ、では何と称すべきかと問われて「いまだ霊明に到らざれば闇明なり」、あわせて七郎霊社と言おうか、と答えたという。祭礼では七郎田から稲穂二把を調進し、祠官がその稲を手に執り持って歌い舞い、一把は祠官が、一把は大久保某が領した。編者はこの民譚を一場の仮托説と見ている。