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延宝の査定が決めたこと

いまの式内社二十四座の並びは、江戸のはじめに一人の神学者が下した査定に由来します。

1926 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

延喜式神名帳は、平安のなかばに壱岐島の社を二十四座と数えました。ところが、その二十四座がいまのどの社にあたるかは、長いあいだ分からなくなっていました。神名帳に載って以後の国史の記載はぱったり途絶え、風土記も散逸して跡をとどめません。江戸のはじめには、調べるための資料そのものが失われていました。

そこへ手を付けたのが、平戸の神学者 橘三喜です。三喜は国主の松浦鎮信に進言して査定を行い、延宝四年(1676年)にその結果を出しました。**いまわたしたちが「壱岐二十四座」として並べている順序は、このときに決まったものです。**

大正十五年(1926年)に『壱岐神社誌』を書いた後藤正足は、この査定を手放しでは評価していません。三喜が仕事に取りかかったとき、記録も伝説もすでに散り失せていて、集めるべきものがなかった。だから社号と位置の考証を誤り、独断を加えた箇所がある、と書きます。

具体的な批判もあります。印鑰、聖母、三つの八幡のように、明らかに式内社であるはずの社を、両部習合の社号がかぶせられているというだけで、何の検討もせず式外にしてしまった。しかもそれ以外にも、一つ二つを除けばほとんど的を射ていない。後藤の見立ては手厳しく、この査定によって壱岐の式内社は混乱し、多くが創立当初の史実を失うに至った、とまで述べます。

それでも後藤は、三喜の労を打ち消しません。この企てがなければ、式内社の名前を拾い集めることさえできなかった。社号を複雑にした責任は免れないにせよ、式内社の沿革を語るうえで三喜の働きは特記しないわけにいかない。しかも当時としてはやむをえない事情があったのなら、なおさらである、と結びます。

査定は社を増やしもしました。延宝四年、物部村の鉢形丘のいただきに天手長男神社が新たに創建され、一の宮と称して国中の総廟と定められます。あわせて、武生水町の宗廟である国津意加美神社は、代官の詰所である亀丘城のある土地の社であることから「御願本」と定められました。この二社は大七社に準じる国主直参の社とされ、定例の祭には亀丘城在番の城代が参向します。**壱岐で国主が直に参る社は、こうして九社になりました。**

当サイトの二十四座のページは、『神社覈録』『特選神名牒』『太宰管内志』という三つの考証書から起こしています。その三書が論じ合っている比定の食い違いは、もとをたどればこの延宝の査定に行き着きます。どの社がどの座かで意見が割れているのは、決め方そのものに無理があったからです。

原文から

三喜がこの仕事にあたったとき、資料の記録や伝説はすでに散逸して収録すべきものがなかったため、社号と位置の考証を誤り、あるいは独断的な判断を加えたところがある。

壱岐神社誌 第一編 総説 第四章

出典: 『壱岐神社誌』大正15年(1926年) 第一編 総説 第四章。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 9/6 18:05

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