今日の壱岐ikijima.com

このページの更新 9/6 12:05

門松を立てない家

天神の船が漂着した年の暮れ、支度が間に合わなかった家々の作法が幕末まで続いていました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

正月の支度をしない家が、島にありました。理由は、六百年ほど前の年の暮れにさかのぼります。

石田村の西間に、老松天神という社があります。石田と池田と印通寺の三つの村の産神で、菅原道真と吉祥女と老松殿を祀りました。いまの石田天満神社にあたります。『壱岐国続風土記』は、この社について古老が伝える話を書き留めています。

むかし十二月三十日に大風が吹き、天神を乗せた船は夕部浦へ、荷物を積んだ船は君ヶ浦へ漂着しました。天神は君ヶ浦へ上がり、海辺の石に濡れた衣を干します。だからその土地を衣浦(きぬがうら)と呼んだのであって、いまの君ヶ浦という名は訛ったものだ、と続きます。撰者はその石の寸法まで測っていて、東西九尺、南北六尺二寸七分、高さ八尺三寸八分と書き入れました。伝説の中の石が、実測の対象になっています。

問題はそのあとです。荷を運んだ者たちは、夜通し働いて夜を明かしました。夜が更けてしまったので、門松だけ立てて年縄を飾らない家があり、年縄も門松もこしらえられない家もありました。大晦日の一夜のことです。

その一夜が、そのまま作法になりました。西間の目坂には、いまもその子孫がいて、門松だけ立てる家があり、門松も立てない家がある、と『壱岐名勝図誌』は書いています。書かれたのは文久元年(1861年)です。少なくとも幕末までは、正月のたびにその年の暮れが繰り返されていたことになります。

同じ天神には、もう一つ似た話が残っています。筒城村との境に「錦畠」という所があり、天満宮が上陸して錦を干した場所だと伝えられていました。だからこの畠は不浄のものが作ることを許されず、近ごろまでは不浄をかけずによく作物ができたのだ、といいます。前の海を通る船が帆を下げずに行くと必ず咎めがあった、という話も添えてありました。

漂着という一度きりの出来事が、地名になり、畠の作り方になり、正月の飾り方になっていく。この社の項は、そのつながりを一続きで書いています。例祭は九月十八日で、前の夜に大神楽があり、当日は藩主の代参と神輿の渡御がありました。

原文から

むかし十二月三十日、大風が吹き起こり、天神の御船は夕部浦に漂着し、御荷物船は君ヶ浦に漂着す。時に天神は君ヶ浦に来らせ給い、海浜の石に御衣を干し給いぬ。

巻之九 石田郡石田村之部 老松天神(『壱岐国続風土記』が引く古老の伝え)

いまに西間の目坂にその子孫ありて、あるいは門松ばかり立て、あるいは門松をも立てざる家あり。

巻之九 石田郡石田村之部 老松天神

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之九 石田郡石田村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 9/6 12:05

読み物の一覧へ戻る季節の暦神社

あそぶ