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門松を立てない家
正月の支度をしない家が、島にありました。理由は、六百年ほど前の年の暮れにさかのぼります。
石田村の西間に、老松天神という社があります。石田と池田と印通寺の三つの村の産神で、菅原道真と吉祥女と老松殿を祀りました。いまの石田天満神社にあたります。『壱岐国続風土記』は、この社について古老が伝える話を書き留めています。
むかし十二月三十日に大風が吹き、天神を乗せた船は夕部浦へ、荷物を積んだ船は君ヶ浦へ漂着しました。天神は君ヶ浦へ上がり、海辺の石に濡れた衣を干します。だからその土地を衣浦(きぬがうら)と呼んだのであって、いまの君ヶ浦という名は訛ったものだ、と続きます。撰者はその石の寸法まで測っていて、東西九尺、南北六尺二寸七分、高さ八尺三寸八分と書き入れました。伝説の中の石が、実測の対象になっています。
問題はそのあとです。荷を運んだ者たちは、夜通し働いて夜を明かしました。夜が更けてしまったので、門松だけ立てて年縄を飾らない家があり、年縄も門松もこしらえられない家もありました。大晦日の一夜のことです。
その一夜が、そのまま作法になりました。西間の目坂には、いまもその子孫がいて、門松だけ立てる家があり、門松も立てない家がある、と『壱岐名勝図誌』は書いています。書かれたのは文久元年(1861年)です。少なくとも幕末までは、正月のたびにその年の暮れが繰り返されていたことになります。
同じ天神には、もう一つ似た話が残っています。筒城村との境に「錦畠」という所があり、天満宮が上陸して錦を干した場所だと伝えられていました。だからこの畠は不浄のものが作ることを許されず、近ごろまでは不浄をかけずによく作物ができたのだ、といいます。前の海を通る船が帆を下げずに行くと必ず咎めがあった、という話も添えてありました。
漂着という一度きりの出来事が、地名になり、畠の作り方になり、正月の飾り方になっていく。この社の項は、そのつながりを一続きで書いています。例祭は九月十八日で、前の夜に大神楽があり、当日は藩主の代参と神輿の渡御がありました。
原文から
むかし十二月三十日、大風が吹き起こり、天神の御船は夕部浦に漂着し、御荷物船は君ヶ浦に漂着す。時に天神は君ヶ浦に来らせ給い、海浜の石に御衣を干し給いぬ。
いまに西間の目坂にその子孫ありて、あるいは門松ばかり立て、あるいは門松をも立てざる家あり。