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神楽の名簿は一四三五年から

島の神職が海を渡って平戸で舞った記録と、舞い手二十五人の名が残っています。

1926 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

壱岐の社で舞われる神楽が、いつから続いているのかを書いた資料があります。後藤正足が大正十五年(1926年)にまとめた『壱岐神社誌』の第二節です。

文明四年(1472年)に波多氏が壱岐を領有してから、島じゅうの神職には決まった年中の勤めができました。毎年正月五日に亀丘城の代官へ年頭の挨拶をし、三月には海を渡って肥前上松浦の岸嶽城まで行き、領主へじかに礼をとる。そして十一月二十八日、領主の館で御竈祭の大神楽を奏する。この三つです。

元亀二年(1571年)に松浦氏の領有となってからも、この形は変わりませんでした。その年の十一月二十八日、惣神主の吉野甚五左衛門末秋が壱岐の神職二十余名を率いて平戸の居城へ渡り、御竈祭を勤めています。翌年からは平戸の神職も加わりました。

祭りの分担まで残っています。内の道場の水引と八方の幡と雲盤は壱岐の神職が整え、外の道場の注連縄と四本の榊は平戸の神職が整える。神供を調える作法は御竈師と御厨の神職が勤める。全部で三十八人のうち、壱岐から二十八人が海を渡り、壱岐の惣太宮司以下が左の席、平戸の神職が右の席に着いて、一同で神楽を舞いました。渡る人数はのちに減っていき、貞享年間から十二人、宝永元年からは八人になります。

舞そのものの行き来も書かれています。磐戸神楽は壱岐の得意とするところなので、これを平戸へ伝えました。逆に、山五郎(八咫烏)、六将軍(二弓)、押敷(八平手)、相撲(神角力)、山海鬼(猿田彦舞)は平戸のものを壱岐が譲り受けたものだ、といいます。神楽の始めと終いは壱岐の上席の神職が勤めるのが決まりでした。

そして、この節にはもっと古い紙が引かれています。永享七年(1435年)十一月吉日の「神楽舞人数のこと」という文書で、二十五人の舞い手の名が並びます。津々良原左近九郎、柚の木彦太郎、箱崎衛門五郎、瀬戸之宗四郎。地名を冠した名が多く、どの里から誰が出たのかが分かる書き方です。この写しは明暦四年(1658年)六月に、箱崎八幡宮の祠官 吉野掃部介末益が書き記したものでした。判読しにくい箇所もあると著者は断りつつ、当時のありさまの一端はうかがえるだろう、と述べています。

待遇の記録も細かく残っています。松浦家の大納戸から神職へ配られたのは、中折紙一束、長板二十枚、鳥目一貫文、苧一斤。旅費は乗船の日から帰着の日まで一人あたり米六合五勺で、船も用意されました。元文四年からは陸上の荷物運びが村送りになり、その形が明治のはじめまで続きます。

著者は、この節をこう結んでいます。平戸への航海の途中で風浪に遭って難破した者もあった。それでもこの神事に出ることは、ひとかどの名誉と見なされていたらしい、と。冬の海を渡って舞いに行く勤めが、五百年近く途切れずに続いていたことになります。

原文から

壱州の社家は十二人に減り、宝永元年からは八人に減った。

壱岐神社誌 第二節 御竈祭と壱州神楽

なかには平戸への航海の途中で風浪のために難破の災難に遭った者もあった。それでもこの神事に参加することは、ひとかどの名誉と見なされていたらしい。

壱岐神社誌 第二節 御竈祭と壱州神楽

出典: 『壱岐神社誌』大正15年(1926年) 第二節 御竈祭と壱州神楽。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 9/6 12:05

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