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このページの更新 9/6 12:05

なぜ鯨伏というのか

鰐に追われた鯨が隠れ伏した土地だと風土記は書き、その岩は幕末まで路傍にありました。

1861 年までに書かれた記述をもとにしています。いまも同じものがあるとは限りません。所在と地図は各スポットのページにあります。

壱岐の北東に鯨伏(いさふし)という地名があります。読みにくく、由来も見当がつかない名前ですが、その説明は千年以上さかのぼる書物に載っていました。『厚顔抄』という注釈書が引く『壱岐国風土記』の逸文に、鯨伏は郡の西にあり、むかし鰐が鯨を追って走って来て、鯨が隠れ伏したのでこの名がある、と書かれています。

鯨を「いさ」と読むのは、この島の訛りではありません。『日本書紀』神武紀の和歌の注に「伊珠区波辞」とあり、『万葉集』は「勇魚」と書きます。鯨伏の「いさ」は、その古い言い方が地名の中に残ったものです。

話には続きがあります。追った鰐も、追われた鯨も、ともに石になりました。二つの石は一里ほど離れているといいます。そして『壱岐名勝図誌』は、その鯨の岩がどこにあるかまで書いています。村の南の大路のかたわらに、伏せたような姿で存在する、と。幕末に島を歩いた撰者は、伝説の岩を実際に見て、その位置を書き留め、図まで添えました。

ただし、これには異論が載っています。秀政という人の説として、鯨石は村の南にあるけれども、鯨伏という名のもとは村の北のはずで、本当の鯨石は湯岳邑の「居て吉」という所にあるのではないか、腑に落ちない、という一節が引かれています。撰者はそれに割注を付け、この村のものは磐、湯岳のものは石で、伝えは同じでも品が別なのだろう、と書き添えました。伝説を載せながら、どこが合わないかも並べて残しています。

村の名前そのものも、行ったり来たりしていました。もとは鯨伏と呼ばれていたのが、途中で住吉に変わり、宝永のはじめにまた鯨伏へ戻り、元文五年(1740年)六月九日にふたたび住吉へ復した、と割注にあります。住吉のほうの由来は、住吉大神が住むべき国を探して巡ったとき、この地を「真住吉の国」と讃めたことによる、と記されています。この村の本社が住吉神社で、延喜式神名帳の名神大に数えられる社です。

もう一つ、島の地形についての記憶も書き留められています。古老の口碑として、むかし壱岐郡と石田郡が分かれ、深江の川内から立石の潟の長江まで海水が通じていたころ、このあたりは一面の海だった、という話が載っています。証拠として挙げられているのは地名です。魚釣舩、河原、和布瀬。海に関わる名が内陸に残っているのだから、かつてここは海だったはずだ、という考え方でした。鯨がここまで来たという伝説と、この地形の記憶は、たぶん同じところから出ています。

村の名物は竹細工だと書かれています。海のない村で、鯨の名を負ったまま、竹を編んで暮らしていました。

原文から

鯨伏は郡の西にあり。むかし鰐鯨を追って走り来て隠れ伏す。ゆえに「鯨伏」という。

巻之十七 住吉村之部(『厚顔抄』が引く『壱岐国風土記』)

上にいう鰐鯨を追い来りしが化して石となったという岩は、いま村の南の大路のかたわらに伏したる状にて存す。

巻之十七 住吉村之部

出典: 『壱岐名勝図誌』文久元年(1861年) 巻之十七 住吉村之部。いずれも保護期間の満了した著作で、現代語に起こしたのは ikijima.com です。

この話に出てくる場所

出典: 各スポットのページ(壱岐観光ナビほか)/当方確認 9/6 12:05

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