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住吉神社⁠‍​​​‌‌‌​‌‌‌​​​​‌​

カテゴリ
神社
所在
長崎県壱岐市

式内社 例祭月: 11月

情報: Google(電話・サイト・所在)/ 出典: 玄松子の記憶 / 当方確認 8/18 22:47

この社について

壱岐でただ一つの官社で、島全体の総鎮守にあたる。底筒男神と中筒男神と表筒男神を祭り、相殿に八千戈神(大国主神)を祭る。神功皇后が三韓征伐からの帰りに水軍をこの島にとどめ、国を守る神として住吉大神と八千戈神をみずから祭り、敵国を降す祈りとして軍越(いくさごえ)神事を定めたと社記は伝える。臣下の安倍介麿を島に残し、祭祀の費えとして壱岐一国を与えたともいう。延喜の制では名神大社、明治四年(1871 年)に国幣中社に列せられた。大神を御津浦から今の社地へ移したとき道ばたの草がなびいて道をあけたという由緒から、六月二十八日から七月一日までを島中忌(しまじゅういみ)と呼び、田畑の草取りを忌む習わしがある。例祭は十一月九日で、神幸式のほか大神楽と流鏑馬と大和舞を行う。軍越神事は一月十七日と五月二十八日と十月二十七日の三度。境内は五七〇一坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

幕末の記録は、この社が一度すべて焼けたことを書き留めている。元文三年(1738 年)八月十四日の酉の刻、御殿と拝殿と御饌殿がことごとく炎上した。仮の御殿と拝殿を建てて九月三日に社家十人余りが神迎えの大神楽を奏したところ、夜の明けぎわに連歌松へ立てた御幣と御幡が青・赤・黄・白・黒の色を現し、花川には蛍火のような光が満ちて仮殿へ飛び入った、と『壱岐名勝図誌』は記す。翌四年八月二十一日に社頭の造営が成り、同じ日に遷宮した。平戸の亀岡城の再興に合わせた工事で、このときから新造営は国じゅうの負担になった。宝永四年(1707 年)には藩主松浦棟が矛二本を奉献し、その告文は城の再興が成ったのは神の加護によると述べている。境内には株の太さ一丈五尺五寸の楠があり、池の中島の竹生島社は豊後の下条兵内という者が霊夢を見て勧請したと伝えられていた。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十七 住吉村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

軍越の神酒を仕込む唐瓶のことを、大正の記録は祠官の手記から引いている。天和三年(1683 年)四月の大宝多久馬尚久の記すところでは、住吉の社地の山の下にある鉾田の、一斗二升蒔きの田の真ん中に唐瓶が据えてあり、前の年の四月二十八日に酒を造って翌年の同じ日に取り出して供えた。その酒はまったく傷み損じることがなく、毎年このとおりであったという。ところが文禄年間の朝鮮の陣のとき、隣国の兵士たちがこれを取り出して飲み、瓶を打ち割ってしまった。割れたものは編者の時代にも溝川にあり、古来の祭田も中古には絶えたと書かれている。延宝七年(1679 年)二月の祠官 大宝喜内尚政の言上書には乗馬四人の役が記され、一番が住吉の祠官、二番が鯨伏村平畑屋敷の大川勘太衛門、三番が物部村田上屋敷の幡宮の祠官、四番が同じ屋敷の祝部である福田四郎兵衛だとある。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第八節 那賀村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 大己貴命を祭る社(16 社) / 住吉の三神を祭る社(6 社)

この場所が出てくる読み物

出典: 幕末から大正の地誌(『壱岐名勝図誌』ほか)。当方が現代語に起こしました

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