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藻焼鮑のつくりかた
『壱岐名勝図誌』は地誌ですから、ふつうは社の寸法や田の石高が並びます。ところが諸吉村の八幡浦の項には、料理の作り方が入っています。撰者が「いま藻焼鮑の製法をあらましいわむ」と断って書き出した一段です。
手順はこうです。まず地面に生の藻を敷き、その上に松の割木を積み、さらにその上へ大きな雄の鮑を並べて火をかけます。焼けたら鮑の身を貝から外し、貝の目を味噌でふさぎ、貝の内側にも味噌を塗って、身を戻します。焼きながら醤油をさし、竹の串をよく刺し通し、赤酒を入れる。分量も書いてあって、貝一つに味噌が八十匁ばかり、酒は三合ばかりです。いまの目方でいえば味噌がおよそ三百グラム、酒がおよそ五百四十ミリリットルになります。そのまま長く焼いて、煮えたころを見計らって火から下ろし、わたごと切って食べる。その味は甚だ美好である、と結ばれています。
同じ項には、熨斗鮑の作り方も続いていました。生の雄鮑を貝から外し、真魚板の上で摺って、端から八枚立あるいは十枚立に薄くへぎ、竹に掛けて重りを付け、長く引き伸ばします。それを畳の表に付けて熨斗で干し上げる。暑い盛りが第一によく、寒い時期は塩湯で熨した、とあります。この熨斗鮑は毎年五十二把を藩主に納め、伊勢神宮へも参宮のたびに二把を献じるのが決まりでした。
八幡浦は、当時六十五戸で人口五百十一人、船が四十五艘ある浦でした。名物として挙げられているのは、この藻焼鮑と、小都根の葉鹿尾(はのかいそう)の二つです。
浦の名の由来も、この項に書かれています。文中二年(1373年)六月、八幡大神の御霊石が五島から田部へ漂着したとき、渡浦の海人に告げがありました。自分はこの国で疱瘡神となって人々を守ろう、と。そこでその石を頭にいただいて社を建て、寄八幡宮と称しました。以来、毎年六月二日に、その海人の子孫が参詣することが絶えていない、と記されています。八幡浦という名は、この社があるからです。
料理の分量と、疫病を防ぐ神の由来が、同じ一項に並んでいます。浦の暮らしでは、鮑の焼き方も疫病を防ぐ神の来歴も、一つの項に書きとめておくものでした。
原文から
まず生藻を地上に敷き、その上に松割木を積み、上に雄鮑の大きなるを並べ、火をもて焼くなり。さて鮑を貝より放し、貝の目を味噌にて塞ぎ、また貝の内にもぬり、身を納め、焼くに従い醤油をさし加え、竹の串もて能くさし通し、赤酒を入れ、久しくやきて、煮えたる時を考え火より卸し、そのままわたともに切って喰う。