スポット
手長比賣神社
- カテゴリ
- 神社
- 所在
- 長崎県壱岐市
式内社
この社について
本宮にある無格社で、栲幡千々姫命と天忍穂耳尊を祭る。創立の年月はわからない。『神名記』には「本宮の手長比売神社、小社。名を改める以前は手長男大明神といった」とあり、『神社帳』は「クエ」の手長比売神社を二十四座の一社に数えて、定例の祭を九月十九日とする。慶安二年(1649 年)に再建したときの棟札は「本宮久栄村の棚川大明神の社壇一棟を造立し奉る」と記す。延宝四年(1676 年)六月には、国主鎮信公が木鏡一面と石額を献じて延喜式内社と定めた。ただし『神社考』は、久栄山の神の所在地を呼ぶ「タナガウ」とは籾種を浸す川のことであって手長姫とは関わりがないとし、式内の手長姫神社はむしろ勝本の聖母大明神ではないかと疑う。『長崎県壱岐石田郡村要覧』は、この社を本宮朝川の式内社として、弘仁二年(811 年)十月一日の鎮座と伝える。例祭は十月十九日、境内は二四五坪。
大正の記録では
大正の記録は、社の前の海上に「手長嶋」があることを書き留めている。編者はこれを、この社が古くは山の神または棚河の神と称したことの傍証と見る。『式社沿革考』が延宝の査定より前の祭神を神功皇后とするのは、確かな根拠があるのか、それとも中通邑の幡宮の祭神から広げたものか、なお研究の余地があるとも述べる。そのうえで編者は、この社の前身は「山神」また「棚河神」であって式内社ではないようだとし、延宝の査定は「タナガウ」の地名から手長姫であろうと推測したにすぎないと断じた。式内の手長姫神社は、松本河内が承応社記に推定したように物部村の幡宮に当てるのが妥当だ、というのが結論である。郡が違う不合理は、離島の神社帳が平城京から平安京へ移り史官の手を転々とするあいだに錯誤や誤伝が生じたと考えれば解けるという。
二十四座との対応
延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。
- 第 8 座 手長比賣神社筆頭