スポット
國津神社
- エリア
- 郷ノ浦港周辺
- カテゴリ
- 歴史・文化、神社
- 所在
- 長崎県壱岐市郷ノ浦町
式内社 例祭月: 10月
この社について
渡良の南触、宮之浦にある村社で、渡良の氏神。延喜式神名帳の石田郡「国津神社」に当てられ、二十四座の一つ、壱岐十七社の一つでもある。足名槌命と手名槌命と奇稲田姫命に武甕槌命をあわせ祭り、もとは荒波加大明神と呼ばれた。社記は、神功皇后が三韓を征伐したとき、この村の鹿之辻にめでたい霊験があったので神殿を設け、のちに今の場所へ移したと伝える。弘仁二年(811 年)の創建で、仁寿元年(851 年)に正六位上の位を授けられ、以後たびたび神階を進められた。例祭は十一月十日で、神幸式と流鏑馬を行い大神楽を奉納する。境内は六四五坪。
江戸の記録では
延宝四年(1676 年)、式内社の査定に来た橘三喜が、神田浦に埋められていた甕を掘らせた。中から矛と鏡と菊花石が出て、まったく曇っていなかったという。三喜はそれらを神殿に納め、甕だけをもとの場所へ埋め戻した。『壱岐名勝図誌』は、この神宝を図に十葉ぶん写している。鏡の裏には二重の輪の中に「長命富貴」の四字が鋳出してあった。甕そのものの由来も古伝として載る。伊豆半右衛門という者の遠祖が小浜で沖から寄って来た甕を見つけ、二度まで沖へ突き出したが、そのたびに戻ってきたので神と認めて迎えた、というものである。祭礼の騎馬は、はじめ近郷九十六町から九十六疋を出し、のちに兵船四十八艘にかたどって四十八疋になり、幕末には七疋まで減っていた。社号は青波加大明神といったのを、延宝四年に国津神社と改めている。
大正の記録では
大正の記録は、社役を勤める家が百姓になって戻るまでの陳情書を写している。寛文九年(1669 年)に三富家が差し出したもので、祭礼の鉾の役を先祖から代々勤めてきたが、元和二年(1616 年)に社領が二石へ減らされて役に堪えかねた、と述べる。国老の佐川主馬が、苗字を捨てて百姓になる者には田畑を与えると定めていたので、先祖の弥左衛門は百姓になった。それでも祭礼には必ず鉾を持って供をし、善助の代に神の咎めがあったので庄屋と村中に相談して百姓の役だけを免れたという。後年の帳面に社司として同家の名が見えるので、この願いは容れられたらしい、と編者は判じている。
二十四座との対応
延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。
- 第 16 座 國津神社筆頭
- 第 24 座 物部布都神社論社
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