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七つの郷と七つの社
壱岐の神社を数えるとき、いちばんよく出てくるのは延喜式神名帳の二十四座です。しかし島には、それとは別の数え方がありました。七つの郷と、その郷を受け持つ七つの社です。
典拠は、正平年間(十四世紀なかば)の神領図とされる資料です。『壱岐神社誌』はそこから七社を抜き書きしています。壱岐郡では、可須郷の聖母大明神二ノ宮、惣山方の八幡宮、箱崎郷の八幡宮、鯨伏郷の住吉大明神。石田郡では、国分郷の天満宮、物部郷の蓬宮、西間郷の老松天神。
それぞれの社には、受け持つ村と、田の広さが添えてあります。聖母大明神二ノ宮なら可須、新庄、中野郷、初山、津甫、長嶺、百次郎、有安の八つで九十四町。箱崎郷の八幡宮は江角、赤崎、諸津、瀬戸、中山の五つで六十四町、そのうち七町は宮地村にありました。**社と村と田の面積が一組になっている**ところに、この枠組みが信仰だけでなく土地の区分でもあったことが出ています。
では七つの郷が先か、七つの社が先か。後藤正足は、七社と七郷は切り離せない関係にあるらしい、あるいは七社によって七郷を区画したものだろうか、と書くにとどめます。松浦党の七氏による分割統治にこじつける説もあるが、と紹介しつつ、断定はしません。別の書は七郷の名を中郷、山方郷、箱崎郷、物部郷、牛形郷、蓬原郷、鯨伏郷とも記しており、そもそも名前すら揺れていました。
肝心なのは、この七社が延喜式の七社とまったく一致しないことです。後藤ははっきりそう書きます。蓬宮や老松天神を式内のどれに当てるべきかも明らかでない、と。**平安の目録と中世の枠組みは、別々の理屈で島の社を選んでいました。**
数え方はほかにもありました。神社帳には時代ごとに「十七社」あるいは「十八社」と出てきます。十七社は式内の小社十七社のことで、これは疑いようがありません。分かれるのは十八社のほうで、後藤は二つの見方を並べます。延宝四年に天手長男神社が総廟として建てられて一社増えたとする説と、深江大明神が安国寺の領地にあって古くから同寺の住僧が参っており、寛文年間に代官の西郷右京介が古例をそのまま認めたので加わったとする説です。
どちらが正しいかを、後藤は決めません。「十八社」というものがこうした経緯のなかで現れたことを紹介すれば足りる、これは決して国史に記載されたものではない、と書いて筆を止めます。**数え方が複数あることを、無理に一つへ揃えない書き方です。**
原文から
右に記した七社は、式内の七社とはまったく一致しない。蓬宮や老松天神などを式内のどれに当てるべきかは明らかでない。