スポット
覩上神社
- エリア
- 芦辺港周辺
- カテゴリ
- 歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社
- 所在
- 長崎県壱岐市芦辺町
- 電話
- 0920-45-4145
例祭月: 10月
この社について
湯岳の辻ノ米にある村社で、もとは妙見宮と呼ばれた。素盞鳴尊と奇稲田姫命と大己貴命を祭る。『神明記』は「妙見宮、小社。名を改める前は式内社である」と記し、社記も、昔は式内社であったが延宝四年(1676 年)の詮議で式外社と定められたと伝える。『壱岐神社帳』には「湯岳村トカメ川の妙見宮。本社には宝殿と拝殿があり、定例の祭は九月二十六日。神主は後藤儀部と同左内」とある。はじめは中野郷の帯田山にあったが、神木の落ち葉を拾っただけでも咎めがあったので住吉村の坪見へ移し、のちに同じ村の白岩山へ移した。その場所を古妙見と呼ぶ。享保八年(1723 年)に神幸の願いがかない、翌年から始まった。定例の祭には国主の名代が社参し、流鏑馬を行った。社殿を造営するたびに国主から白銀五枚を寄進された。慶長七年(1602 年)に諸吉熊野権現の社務の三男である木工左衛門正広がはじめて神主となり、以後この社と椎木大明神など五社を兼務した。例祭は十月二十六日。境内は一〇〇八坪。
大正の記録では
大正の記録は、宝暦六年(1756 年)に両祠官のあいだで起きた争論を書き留めている。造営の棟札には二人が署名するはずのところ、後藤長門が後藤三河の名をわざと削り、いずれ三河の一家を遠ざけようと謀った。検分にあたった平田内蔵允がそのとおりだと認め、三河は亀丘の城代へ訴え出た。城代の諭しに従わなかったので一件は平戸へ移り、翌年六月に両人と司配役らが召喚された。裁決は、司配役の松本勘頭と松本隼人を役から外し、長門と三河を叱り置くというものだった。これ以後、島の社家の司配役は平戸の立石大炊が受け持ち、当地には小頭役だけを置くことになった。
二十四座との対応
延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。
- 第 12 座 角上神社参考