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スポット

高御祖神社⁠‍​​​‌‌​‌‌​​‌​‌​‌​

エリア
芦辺港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社
所在
長崎県壱岐市芦辺町
電話
0920-45-1263
駐車場
あり

式内社 例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

諸吉の本村触にある村社で、延喜式神名帳の壱岐郡「高御祖神社」に当てられる。二十四座の一つ。高皇産霊神と伊弉諾尊と伊弉冊尊を祭る。もとは熊野三所権現と呼ばれ、『神社考』は「諸吉邑の宗廟は熊野権現で、紀州田辺の熊野権現を勧請したもの。昔の石鳥居の額には『熊野山』と古い文字で書いてあった」と記す。棟札で古いものは寛永七年(1630 年)で、そこにはじめて「高御祖神社」の社号と神主後藤越中の名が見える。延宝四年(1676 年)の査定では、その四十五年前の棟札を根拠に、昔からの熊野権現を改めて高御祖神社と認められた。例祭は四月十五日で、神幸式を行い大神楽を奉納する。境内は二二四坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

里の古老の話として、神幸が長く途絶えていたことが記されている。この社がもと熊本(幕末の庄屋のあたり)にあった頃は清浜へ神幸していたが、争いが起きて神輿を壊してしまい、久しく中絶した。再興したのは享保九年(1724 年)である。社地の広さについては、撰者が『続風土記』の数字を疑っている。あちらは竪二十間余・横五十間余と書くが、いま量ると竪十間・横三間しかない、間数がひどく違うのでなお考えるべきだ、という。石鳥居は寛文十三年(1673 年)九月の建立で高さ一丈三尺五寸五分。知行二石の寄附状が元和三年(1617 年)から寛延二年(1749 年)まで六通、藩主六代ぶん伝わっていた。神物は延宝年間に藩主が奉納した木鏡一面と石額一双で、そのほかに寛政年間の告文二通があった。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之二 壱岐郡諸吉村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

大正の記録は、この社が安産の神として頼られてきたことを『神社考』から引いている。土地の言い伝えでは神託があり、若い婦人が前で安産を祈るなら必ず加護しよう、産まれた子は着物の裾に包んで介抱せよ、自分は女神であるから産の穢れを忌まない、身ごもった初めから産み月まで参拝を怠らなければ安産は疑いない、というものだった。だから産婦の参詣が古来絶えないという。別の伝記は、宇都宮弥三郎重貞が筑後から渡って十二月の大晦日に上陸し、擂鉢で酒を醸して元旦の直会に供したので、元日に擂鉢の酒を用いる慣わしが続いていると伝える。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第九節 田河村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 伊弉冊尊を祭る社(16 社) / 伊弉諾尊を祭る社(7 社)

この場所が出てくる読み物

出典: 幕末から大正の地誌(『壱岐名勝図誌』ほか)。当方が現代語に起こしました

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