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スポット

熊野神社⁠‍​​​‌​​​‌‌​‌‌‌​​​

エリア
湯本湾周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社
所在
長崎県壱岐市勝本町
電話
0920-45-4145

例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

立石の南触にある村社で、もとは熊野大権現と呼ばれた。伊弉冊尊と素盞鳴尊をはじめ十四柱を祭る。『壱岐国続風土記』は「遠い昔、本宮和泉守橘貞兼が誓願を立て、紀州の熊野から神を迎えてこの場所に勧請した。それ以来、この村の産土神として祭っている」と記す。古老の言い伝えでは、熊野権現が紀伊の熊野山からこの島の鯨伏郷・足海(あしみ)へ着いたとき、浜の石に腰を掛けてから今の社地へ移ったといい、その石を権現石と呼ぶ。正保四年(1647 年)八月に御殿の造営があった。例祭は十月二十九日で、神幸式を行い大神楽を奉納し、浜殿では餅まきを行う。境内は一五九六坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

この社に伝わる剣について、幕末の記録はふつうの社伝より長く筆を割いている。寛文年間、藩主松浦鎮信が江戸へ持たせて目利きに見せたが、時代も作者も分からなかった。同十一年(1671 年)に修復して箱を寄せ、蓋の裏へ「上古伝来の宝物なれば神官ら慎んで怠るなかれ」という意の文を金粉で書かせた。撰者は筑前の国学者 青柳種信の考証を引く。刃と柄をひと続きに鋳た銅剣で、長さ一尺七寸、柄の頭に蓋があり、握りに竹の節のような凹凸がある。銅器は土に入って千年たてば純青になるはずなのに、この剣は青緑でない。皇朝の作か大陸の作か決めがたい、と種信は結んでいる。あわせて銅鉾三口も実物大の図に写した。腰掛石は測り直している。『続風土記』は高さ六尺二寸と記すが、幕末に量ると水の上に出ているのは九寸ほどで、田のかたわらにあった。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之二十 壱岐郡立石村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

大正の記録は、維新より前の定祭の順序と神幸の行列を、社記から書き写している。内殿には蒸した御飯を錫の器で三膳、しとぎ一膳、日形と月形の餅、神酒一双、散米一升三合を供えた。将軍家の武運長久を祈る公方神楽を奏したのち、国主名代が拝礼し、神楽舞三番と田楽が続く。田楽は二人が女面をかぶり、初めは順に一人が廻り、次は逆に一人が廻り、最後は二人で廻った。行列は羽織を着た警固と潮振に始まり、鑓・鉄砲・神馬・矛・旗・幡と続き、笛と大鼓と灑水と散米を社家が持ち、白丁四人が神輿を舁いた。浮殿では流鏑馬三番があって還御した。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第五節 鯨伏村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 素盞鳴尊を祭る社(22 社) / 伊弉冊尊を祭る社(16 社)

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