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スポット

津神社⁠‍​‌‌‌​‌​​‌‌​‌​‌‌​

エリア
郷ノ浦港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社
所在
長崎県壱岐市郷ノ浦町
駐車場
あり

例祭月: 9月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

半城の牛方触にある社で、もとは津上大明神といった。延喜式神名帳の壱岐国二十四座の一つで、弘仁二年(811 年)の創建と伝える。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊をはじめ海神の系統の五神を祭り、大正三年(1914 年)に牛神社を合祀して素盞鳴尊と大己貴命を加えた。仁寿元年(851 年)春正月に正六位上の神位を授けられ、元慶元年(877 年)には大嘗会の供えのために中臣と忌部の両氏が派遣されて幣帛を分けられた。石額には「延喜式内壱岐国二十四座 延宝四年六月一日 橘三喜謹記」とある。旧平戸藩主の崇敬した社で、社殿の造営のたびに白銀五枚が献じられ、祭日には代参として馬廻り衆が参向した。明治九年(1876 年)に村社となった。例祭は十月十日で、神幸式と神楽と流鏑馬を行う。境内は二八七六坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

『壱岐名勝図誌』の撰者は、この社号に疑いを残している。寛永七年(1630 年)の宝殿再建の棟札には「津上神社」とあり、これは延喜式の「角上神社」の上の字を書いたものだろう。延宝四年(1676 年)の改めで「津神社」とされたけれども、式の石田郡 津神社は池田村の津宮大明神のほうで、こちらは正しくは角上神社ではないか、という。そのうえで「久しく定まりたる社号なれば、いま改めるのではない。地名によって試みに書いてみただけである。読む人よ咎めないでほしい」と断りを置いた。藩の代参は一度絶えていたが、寛文八年(1668 年)九月十日に国司代の北原武左衛門が参って再興した。当時は樋口源五右衛門と北原の二人で七社の代参を勤め、武左衛門はまずこの社に詣ってから渡良村の国津神社へ回ったと社家の日記にある。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十五 石田郡半城邑之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

棟札の社号が移り変わっていく様子を、大正の記録は四通並べて写している。元和四年(1618 年)のものは社号を掲げずに当社とだけ書き、大旦那の松浦豊後守源信実とその娘の息災延命を祈る。寛永七年(1630 年)と寛永十八年(1641 年)のものは津上大明神と記し、延宝八年(1680 年)のものではじめて津神社となる。寛文十二年(1672 年)十月八日には、牛疫が流行して多くの患畜が出たため、国主の命で牛神社をこの社の境内に勧請した。全島を崇敬者とし、夏秋の二度の祭りの経費を国じゅうから納めさせ、神主を松本権頭と馬場治部と定めたという。編者は、この社の名を土地の人が「ツノカミ」と呼んできたことを、京の官人が振り仮名した読みより重い資料と見ている。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第三節 柳田村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 神社覈録 / 特選神名牒 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 素盞鳴尊を祭る社(22 社) / 大己貴命を祭る社(16 社)

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