今日の壱岐ikijima.com

このページの更新 9/10 16:05

城跡と烽火の跡

この島には防人と烽が置かれ、蒙古の軍船は二度この海へ来ました。その備えの跡は、幕末の地誌の村ごとの巻に散らばって書き留められています。けれども島じゅうを見わたせる一覧がありませんでした。ここに置いたのは、その跡を人が読み取って並べ直した 44 件です。城の跡が 32 件、烽火や遠見の場所が 9 件、戦のあったと伝える野が残りで、20 の村にまたがります。

並んでいるのは資料がそう書いていることで、いまの姿ではありません。幕末に「跡」と書かれた場所が、いまも同じ姿で残っているとはかぎりません。種類の分け方は当方のもので、資料の言葉ではありません。

年は資料が年号を書いているものだけを載せました。年の入っているのは 2 件だけです。多くの項は「嘉暦年中」「朝鮮陣の時」「中昔」としか書いておらず、そこを推し量って年を補うことはしていません。主も同じで、「誰人の居城であるかは伝えがない」と書いてある項に、当方が名を入れることはしません。

地図には載せていません。資料が書いているのは「東西二百十六間、南北一百七十間」という間尺だけで、そこから地点を割り出すには推し量りが要るからです。名の起こりは地名の由来の面が、出来事の年は島の年表が持ちます。この一覧はそれらと重ねて書かないようにしてあります。

城跡と烽火(44 件)

並びは資料の巻の順、同じ巻の中は種類と名の順です。一名は資料が挙げているものだけ添えました。

跡の名種類残るもの・詳しく出典
諸吉村高尾城跡城跡伝わらず資料に年の記載なし頂は松山と畠で、西の隅に射場の跡という名が残る。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二 壱岐郡諸吉村之部
川北村岸嶺古城(一名 加暦城)城跡伝わらず資料に年の記載なし子城は湯岳村に属す。嘉暦のころに築いたと伝える。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
川北村払久城址城跡伝わらず資料に年の記載なし絶頂に枝葉の広がる大松が一株あった。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
川北村軍場戦の跡伝わらず資料に年の記載なし標の石塔を載せた石塚がひとつ残る。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
中郷村鷹野原烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし野の中に烽火所があり、傍らに経塚という塚がある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之四 壱岐郡中郷村之部
国分村郡城跡(一名 塩津留城)城跡塩津留氏資料に年の記載なし三重の隍と、台所屋敷・城の越屋敷という所名が残る。読み物で詳しく『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之五 壱岐郡国分村之部
国分村鶴翔城城跡塩津留氏の族かという資料に年の記載なし本丸の石垣と門の跡が残り、石壇を城八幡と呼ぶ。読み物で詳しく『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之五 壱岐郡国分村之部
湯岳村嘉暦城城跡嶋氏と伝える資料に年の記載なし嶋氏の系譜は伝わらない。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之六 壱岐郡湯岳村之部
湯岳村戸城城跡志佐氏文明四年(1472 年)落城のいきさつを伝える名が、まわりの字にいくつも残る。読み物で詳しく『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之六 壱岐郡湯岳村之部
湯岳村浅井古城城跡伝わらず資料に年の記載なし頂の西の方に烏帽子石という石がある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之六 壱岐郡湯岳村之部
石田村石田城址(一名 東城)城跡伝わらず資料に年の記載なし松林となり、御崎の祠がその中にある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
石田村菊城址城跡伝わらず資料に年の記載なし堀も石垣もなく、頂は松山になっている。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
石田村黒木城址(一名 西城)城跡伝わらず資料に年の記載なし本丸に城主の墓と伝える塚があり、五輪塔も立つ。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
池田村池田古城城跡伝わらず資料に年の記載なし西につづく「橋城」という所と、艮に新城塚という塚がある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十 石田郡池田村之部
池田村浦山古城城跡牧山氏資料に年の記載なし頂上に日高安芸守の墓がある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十 石田郡池田村之部
志原村帯田城址城跡日高信助と伝える資料に年の記載なし松山となり、堀と石垣がわずかに残る。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十一 石田郡志原村之部
初山村鋸崎城(一名 城辻)城跡伝わらず資料に年の記載なし坪浦の巽の高い海岸にあり、西南の海上を遠く見わたす。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十二 石田郡初山村之部
初山村嶽峯(一名 志原岳)烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし三つの村の境にあたり、島でいちばん高い嶽である。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十二 石田郡初山村之部
武生水村亀尾城城跡日高甲斐守喜資料に年の記載なし資料で年が食い違います本丸と二丸と三丸、亀石、御館の石垣が残る。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部
武生水村立石古城(一名 白石城)城跡伝わらず資料に年の記載なし頂上の池は水田になり、八大竜王の西に立石がある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部
渡良村鷲城(一名 不朔城)城跡伝わらず資料に年の記載なし頂上に石畳と松があり、数多の石が立ち並ぶ。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十四 石田郡渡良村之部
半城邑角上嶽烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし頂の西の方に烽火所が置かれていた。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十五 石田郡半城邑之部
物部村大屋古城城跡鴨知氏と伝える資料に年の記載なし頂上の石垣は崩れ、いまはすべて畑になっている。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十六 石田郡物部村之部
長嶺村山口城蹟城跡伝わらず資料に年の記載なし子城と府内という区画の名だけが残る。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十八 石田郡長嶺村之部
長嶺村火焼尾(一名 火立丘)烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし多くは畑になり、頂上に茅野が残る。対馬が見えるという。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十八 石田郡長嶺村之部
立石村布代城跡城跡伝わらず資料に年の記載なし頂上に方一間ほどの墓が三つあり、松が多い。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
立石村軍場戦の跡伝わらず資料に年の記載なし古戦場だと里が伝え、近世まで髑髏があったという。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
布気村牛ヶ城墟(一名 生池城)城跡伝わらず資料に年の記載なし二重の堀と四方の門の跡、子城の小松山が残る。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
布気村明神丘烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし村でもっとも高く、烽火台が置かれている。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
布気村火焼丘烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし往還の西にあって、村のほぼ中央にあたるという。名の起こりは地名の由来へ『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
本宮村嶽城城跡伝わらず資料に年の記載なし巓に石塔らしいものがあるが、巡りの石と紛れる。名の起こりは地名の由来へ『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
本宮村加宮津野烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし村でいちばん高い野で、烽火所が置かれている。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
本宮村軍場野戦の跡伝わらず資料に年の記載なし畑の中に千人塚という塚が二つある。名の起こりは地名の由来へ『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
可須村加賀城城跡伝わらず資料に年の記載なし頂上に石垣が多い。異国に備えた番城であろうという。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村地命寺古城跡城跡伝わらず資料に年の記載なし本丸の地は寛政のころに引かれ、いまは人が住む。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村本浦古城址城跡伝わらず資料に年の記載なし『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村武末古城址(一名 勝本城)城跡豊臣秀吉資料に年の記載なし子城に松が多く、礎が残って屋形の様が知られる。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村烏城址城跡波多氏と伝える資料に年の記載なし『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村風早城址城跡伝わらず資料に年の記載なし内外の堀の跡は畑となり、子城には大石が多い。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村高津古城址城跡しんそうと伝える資料に年の記載なし本丸の南に千人塚、その南に射場本という所がある。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須村若宮嶋烽火・遠見伝わらず資料に年の記載なし頂に遠見番の番所があり、南に千把滝という松山がある。名の起こりは地名の由来へ『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
新庄村古城跡(一名 樋詰城)城跡庄司と伝える文永十一年(1274 年)敵千人塚という所があり、いまも石が一本立つ。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十四 壱岐郡新庄村之部
新庄村陣屋山戦の跡伝わらず資料に年の記載なし広い松山だが、いつの陣屋かは伝わらない。『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十四 壱岐郡新庄村之部
箱崎村船匿城城跡日高大膳資料に年の記載なし沢辺に射場、海中に舩囲という所がある。読み物で詳しく『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
出典: 『壱岐名勝図誌』1861 年(当方が現代語に起こしたもの)

資料で年が食い違うもの(1 件)

どちらかを正しいことにはしていません。資料の書きぶりをそのまま並べます。

亀尾城ー日高喜が島を取った年

  • 永禄七年(1564 年)という説(『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部)
  • 永禄十二年(1569 年)という説(『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部)

この一覧の作り方

跡も名も主も、人が資料を読んで写しました。「城」という字だけを機械に拾わせると、寺の山号や田の名まで拾ってしまうからです。写した一文が資料の本文にその字のまま出てくることは、機械が資料と突き合わせて確かめています。

読み取れない字を含む文からは採っていません。当方の写しは活字の翻刻を機械で読んだものなので、判読できなかった箇所が残っています。その印を含む文は根拠にしていません。そのため、資料に項のある跡でもここに載せていないものがあります。

資料が伝聞として書いているものは、伝聞のまま出します。「誰人の居城か詳らかでない」と書いてある項から主を立てることは、機械の側で止めてあります。

壱岐島とはへ地名の由来へ島の年表へ史料からの読み物へ幕末の二十四か村の表へ

あそぶ