今日の壱岐ikijima.com

このページの更新 9/10 11:05

地名の由来

鰐に追われた鯨が隠れ伏したから鯨伏。神が「夜が更けた」と言った所だからふけ川。市場の馬を洗ったから馬洗川。幕末の地誌は、こうした名の起こりを村ごとの巻に書き留めています。けれども地名から引く道がありませんでした。ここに置いたのは、その由来を人が読み取って並べ直した 86 件です。

並んでいるのは資料がそう書いていることで、いまの姿ではありません。由来の多くは里の言い伝えです。資料が「〜という」「〜と伝える」と書いているものを、断定に直してはいません。資料が由来を書いていない地名は入れていません ―― 名の起こりを当方が推し当てることはしません。

いまのどこにあたるかを結べたのは 7 件、結べなかったのが 79 件です。分からないものは、分からないままにしてあります。幕末の名がそのまま残っている土地もあれば、字の書き方が変わった土地も、どこを指すのか追えなくなった土地もあります。結び先は名の重なる場所で、幕末の地点と同じ場所であるとまでは確かめていません。

名の起こり(86 件)

並びは資料の巻の順、同じ巻の中は名の順です。読みは資料が振っているものだけ添えました。

地名名の起こり名の重なるいまの場所出典
借水旱魃のたびに近くの里が競って借りに来た井だからだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二 壱岐郡諸吉村之部
清浜白い砂の浜がまことに清らかなので、そう名づけたという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二 壱岐郡諸吉村之部
芦辺焼失が打ち続いたので「豊浦」の名を改めたものだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二 壱岐郡諸吉村之部
諸吉村の清浜が「清し」「水よし」の二つを兼ねるからだ、という説を引く。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二 壱岐郡諸吉村之部
冠丘社の神がこの尾にあがって脱ぎ捨てた冠が石になったのだと古老が説く。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
射辻矢作尾で作った矢を北へ射て、その矢が落ち留まったところだと古老が伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
川北田河の北にある村だからであろうかと『続風土記』を引いて記す。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
御手水井日吉山王が神崎からあがったとき、この井の水で手を洗ったといい伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
神崎日吉大明神が比叡山から海辺の一の瀬へ着いたところだと土地の人が伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
鎧畠日吉の神が神の崎に着いたとき、ここで鎧を脱いだと伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之三 壱岐郡川北村之部
腰かけ石国分天神がこの地に来て腰をかけた石だと古老が伝える。読み物で詳しくこの索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之四 壱岐郡中郷村之部
遠見岡筑前と肥前の山々まで海上はるかに見渡せるからであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之四 壱岐郡中郷村之部
一銭替松苗一本につき一銭を与えて植えさせた山であることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之五 壱岐郡国分村之部
仏淵むかし深い淵で、ときどき仏のようなものが現れたからだと村人が話す。読み物で詳しくこの索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之五 壱岐郡国分村之部
当田もとは海浜の波潮に石垣を築いた新田で、「潮田」であろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之五 壱岐郡国分村之部
柴神道祖神で、往来の人が柴を折って手向けることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之五 壱岐郡国分村之部
御神岳神迎えの神楽を奏したところだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之六 壱岐郡湯岳村之部
津合橋両郡のあいだが海だったころの渡し場の津だったところだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之七 深江村之部
杉谷むかし杉があったからであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之八 石田郡筒城村之部
錦浜錦の御衣を干したところだと社の縁起が説く。錦浜海水浴場『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之八 石田郡筒城村之部
印通寺投げた箭が十城別王を射通したところで、もとは「射通」と書いたという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
名護屋その矢を投げた地で、もとは「なげや」と呼び、いまの呼び方は訛りである。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
妻嶋衣通姫の社があることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
衣浦(きぬがうら)天神が海浜の石に衣を干したところで、いま「君ヶ浦」と呼ぶのは訛りだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之九 石田郡石田村之部
池田むかし村じゅうに池が多く、年月を経て埋まり田になったことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十 石田郡池田村之部
久喜石にあがって矢を射た故事により、もとは「九鬼浦」と書いたという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十一 石田郡志原村之部
人田橋橋を掛けるとき初山から酒餅を二駄運んだので「二駄橋」といったと里の老人が伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十一 石田郡志原村之部
志原村の野原が広平で紫草がよく茂ったので「紫原」と名づけたことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十一 石田郡志原村之部
馬洗川市場の馬を洗ったところだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十一 石田郡志原村之部
鳥山名義は詳らかでないが、雌鳥原に近いので雄鷲が飛び来たところであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十一 石田郡志原村之部
津甫入江のかたちが壺のようなので「坪」と名づけたのであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十二 石田郡初山村之部
常磐の水増しも減りもしない清水であることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部
本居浦(もとゐ)村の海浜のとくに曲江の深いところなので、もとは「江の浦」であろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部
馬立(またて)三韓征伐のとき人数の馬を立てたところだと里の老人が伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十三 武生水村之部
契来通ってきた人が別れぎわに「いずれの夜も来る」と契ったところだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十四 石田郡渡良村之部
本綿浦はじめて綿を積んだ船が着いた津だという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十四 石田郡渡良村之部
渡良どこからも舟で渡って通う村だから「わたり村」と呼んだのが訛ったのであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十四 石田郡渡良村之部
神楽(かんべと)官軍が着いて神楽を奏し神を祭ったところで、いまは「柏」と書く。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十四 石田郡渡良村之部
御津住吉大明神が着いた船着き場なので敬ってそう名づけたという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十五 石田郡半城邑之部
桜江むかし曲江で、岸の桜の影が江に映っていたからだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十六 石田郡物部村之部
物部村に物部布都神社があることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十六 石田郡物部村之部
鉢形嶺嶺のかたちが兜の鉢のようであることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十六 石田郡物部村之部
軍越神この神の通力が敵国に発越して防いだからだと社の記が説く。軍越神社『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十七 住吉村之部
鯨伏鰐に追われた鯨が走り来て隠れ伏したところだという。読み物で詳しくこの索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十七 住吉村之部
国分岳神が波の音を聞いて国分へ移り鎮まったことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十九 石田郡黒崎村之部
長藤山むかしここに名藤があったからだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十九 石田郡黒崎村之部
阿普海へ臨む滝が高く危ういので「あぶなし」から出たのであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十九 石田郡黒崎村之部
黒崎阿普や小島・唐舩の崎がもっとも黒いからであろうと『続風土記』を引いて記す。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十九 石田郡黒崎村之部
黒瀬瀬の色が黒いことによる。村の名もこれらから出たのであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之十九 石田郡黒崎村之部
加良神破損した唐舟の船魂を斎き祭ったことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
果津馬を捕ろうとした河童が逆に引き殺され「はつるる」と言ったからだという。読み物で詳しくこの索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
百間馬場竪が百間余の平地で、まことによい馬場だからであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
立石紀州から持って来た紫石を山端の高岸に立てたところだという。立石神社『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
経丘いずれの代か、丘の頂に経を埋めたからだという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十 壱岐郡立石村之部
ふけ川神が小川の渡りで「夜が更けた」と言った所で、これが村の名になったという。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
二の坂山布気と片山の二つの坂があることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
戸板原原のかたちが戸板のようだからだと村里で言う。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
火焼丘むかしこの丘に千把の茅を積んで放火の設けとしたからだと里民が言う。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
牛か城囲まれて用水が尽き、精米を浴びせて水があると見せかけたからだと言い伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
茶屋本山巡察使が長途の足をやすめる茶店をここに設けたことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
釜蓋田の中の石のかたちが釜の蓋のようであることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
鬢掻瀬水神社の神が浜に着き、石に腰をかけて鬢を掻いたところだと言い伝えている。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十一 壱岐郡布気村之部
双六対馬から双六を打ちに来た者に堂主が賭け負けたところだと村民が言う。読み物で詳しく双六古墳『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
嶽城西北が滝で高さ二十間ばかりの険阻な岳だからであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
本宮八幡大神宮の鎮座によるとも、和泉守の領地によるともいい、決めていないという。本宮八幡神社『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
神舞場むかし神楽のあったところだと村民が言う。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
竜王崎海神が鎮座する地であることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
軍場野高麗の賊兵と吾が国の兵とが攻め戦ったところだと村民が言う。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十二 壱岐郡本宮村之部
勝本三韓に勝ったことを悦んで名づけたことによる。勝本城跡『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
口細浦浦の口がわずか十間ばかりで、袋の口をくくったかたちであることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
可須筑前粕屋郡の「糟」の字を仮名書きにしたものであることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
寝島むかし百合若大臣が昼寝したところだと伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
若宮嶋若宮大明神が鎮座する地であることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
風本東風の吹き送る方を「風早し」と讃えて名づけたことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十三 壱岐郡可須村之部
古社山筥崎八幡宮が中葉ここに鎮座し、元禄年中に筥崎へ還ったことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十四 壱岐郡新庄村之部
新庄乱世のとき筥崎と可須の両村を割って新たに里をなしたことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十四 壱岐郡新庄村之部
簾掛山(すだれかけ)筥崎と新城の合戦のとき大将の陣として簾を掛けたところだと村民が言う。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十四 壱岐郡新庄村之部
五日田八幡大神の五月五日の御供田であることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
五百鳩鳩鴒が五百ばかり飛び来て仰いだところだと縁記が説く。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
東石尾尾の上に大きな磐石が多いことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
瀬戸浦立上の崎を巡って中崎のあたりまで入津するところだからであろうとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
番石野犬から牧の馬・牛を守るため、傍らに小屋を営んで番をしたからだと伝える。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
箱崎応神天皇の胞衣を箱に納めて埋め、上に松を植えて標としたことによる。箱崎八幡神社『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
赤瀬湍瀬がみな赤いことによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
陰嶽(めだけ)陽嶽に相対しているからであろうか、岳の上に天鈿女命が鎮座するからかとする。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
鶴丘山のかたちが鶴のようであることによる。この索引からは結べません『壱岐名勝図誌』1861 年 巻之二十五 壱岐郡箱崎村之部
出典: 『壱岐名勝図誌』1861 年(当方が現代語に起こしたもの)

この索引の作り方

由来は人が資料を読んで写しました。「ゆえに」「名義」という語だけを機械に拾わせると、由来でない文まで拾ってしまうからです。写した一文が資料の本文にその字のまま出てくることは、機械が資料と突き合わせて確かめています。

読み取れない字を含む文からは採っていません。当方の写しは活字の翻刻を機械で読んだものなので、判読できなかった箇所が残っています。その印を含む文は、由来の根拠にしていません。

由来が二つ以上ある地名もあります。資料の側がどちらとも決めていないときは、決めないまま置いています。詳しい経緯は読み物のほうに書きました。

壱岐島とはへ史料からの読み物へ幕末の二十四か村の表へ神社の年表へ

あそぶ