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スポット

天手長男神社⁠‍​​‌‌​‌​‌‌​​​‌‌​​

エリア
郷ノ浦港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社、駐車場、交通・移動
所在
長崎県壱岐市郷ノ浦町
電話
0920-47-5748
駐車場
あり

式内社 例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
情報: Google(所在)/ 出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 9/8 12:04

この社について

物部の鉢形の丘にある社で、壱岐の一の宮。延喜式神名帳の名神大社にあたり、昔から「国中総社」と呼ばれて島じゅうから崇敬されてきた。天忍穂耳尊と天手力男命と天鈿女命を祭る。『文徳実録』は嘉祥三年(850 年)十月に、詔によって天手長男と天手長比咩の両神を官社に準じるものとしたと記す。神功皇后が三韓征伐のときに兜の鉢を納めた場所という伝えから、社地を鉢形と呼ぶ。延宝四年(1676 年)にこの場所から古い鏡が三面掘り出され、いまも神宝として伝わる。同じ年、藩主鎮信の使者が絶えていた社を再建し、その経緯を橘三喜が石額に記した。旧平戸藩の崇敬も格別で、社領十石のほか祭祀料や幣帛料が供され、島じゅう二十四か村の庄屋が田植えのあとに風留めと五穀成就の祭りを願い出る決まりであった。例祭は九月十六日。境内は一七五坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

延宝五年(1677 年)、鉢形の頂の土中から碑石が掘り出された。銘に「延久二年三月より同三年六月に至りて成就」とあり、当時の国司 佐伯良孝と大掾 若江糸用の名が読めたという。あわせて唐鏡三面が出た。ところがこれを掘り出してから災いが続いたので、天和元年(1681 年)に藩の命でもとどおり埋め戻し、榊を目印に立てた。『壱岐名勝図誌』は、その場所が神殿の乾(北西)にあると書いている。元禄元年(1688 年)にはじめて宝殿と拝殿の造営があり、翌年の春には島じゅうの人を出して社地に杉と桜と松を植えさせた。宝暦年間には雨乞いをして、雨が降ったら一の鳥居を建てると願を立て、実際に降ったので木の鳥居を建てた。明和六年(1769 年)に朽ちて建て直したが、それも朽ちたまま「いまはなくなりにけり」と幕末の撰者は書いている。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十六 石田郡物部村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

この社の神職は一家の世襲ではなかった、と大正の記録は書く。延宝四年(1676 年)から明治のはじめまでを、箱崎八幡宮・物部の幡宮・相神浦・中野郷八幡宮・武生水の妙見宮といった各社の祠官が順に受け持ち、寛政十一年(1799 年)に武生水妙見宮の祠官である松本勘頭重喜が就いてからは子孫が数代にわたって受け継いで七十五年に及んだ。守札の配付料も記録に残る。二十四か村およそ八千軒から一戸につき米一升、八ヶ浦およそ千五百軒から一戸につき銀一匁で、銀のほうは金二十両に当たるという。寛保二年(1742 年)十二月十三日には瀬戸浦と勝本浦の両所の鯨組が黒皮大神楽を奏し、これ以後は永く定めとなった。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第三節 柳田村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 特選神名牒 / 神社覈録 / 太宰管内志 / 特選神名牒 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 天忍穂耳尊を祭る社(8 社)

この場所が出てくる読み物

出典: 幕末から大正の地誌(『壱岐名勝図誌』ほか)。当方が現代語に起こしました

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