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兵主神社⁠‍​​​‌‌‌​​‌​‌‌‌‌​‌

エリア
芦辺港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社、御朱印をいただける神社、飲食、交通・移動
所在
長崎県壱岐市芦辺町
電話
0920-45-1263
営業時間
月 24時間 / 火 24時間 / 水 24時間 / 木 24時間 / 金 24時間 / 土 24時間 / 日 24時間

式内社 例祭月: 10月

曜日別の営業時間
月24 時間
火24 時間
水24 時間
木24 時間
金24 時間
土24 時間
日24 時間

出所: Google の掲載値(店の申告ではありません)

営業時間はGoogle の掲載値から機械的に判定しています。臨時休業・季節変動は反映されません(生成 10/3 23:05 時点)。

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
情報: Google(営業時間・電話・サイト・所在)/ 出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 9/8 12:04

この社について

深江にある村社で、延喜式神名帳の壱岐郡「兵主神社」に当てられる名神大社。二十四座の一つで、素盞鳴尊と大己貴神と事代主神を祭る。もとは日吉山王権現と呼ばれた。『神社帳』には「河北村京徳ノ辻の兵主神社、大社。宝殿と拝殿があり、定例の祭は九月二十五日」とある。仁寿元年(851 年)正月に正六位上の位を授けられ、社領は高二石。社殿を再建するたびに藩主から白銀五枚が寄進された。明治九年(1876 年)に村社となった。なお延宝四年(1676 年)の式内社の改めで川北村の日吉山王社を兵主神社に当てたことには、本宮八幡神社の側から異論が伝わっている。例祭は十月二十日。境内は八八四坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

幕末の記録は、この社の棟札を年の順に並べて、社号の新しさを示している。永禄十年(1567 年)から寛文十年(1670 年)まで、造替のたびの棟札はいずれも「日吉山王三七社」と記し、「兵主神社」と書かれたのは安永四年(1775 年)がはじめてだという。正徳五年(1715 年)七月には吉田家の宗源宣旨で正一位を授かり、その宣旨と祝詞と幣帛を大和錦を張った箱に納めて伝えていた。里の伝えも細かく写している。日吉の神が比叡山から村の東の海辺、一の瀬へ着き、そこで海鹿尾を採って肴にしたので今もその瀬に生え、毎年九月二十三日の朝に採って神供とする。浜の上の畠で鎧を脱いだので鎧圍、井で手を洗ったので御手水川、西の丘で冠を捨てたらそれが石になったので冠石 ―― と、社へ登る道すじの地名を一つずつ結び付けている。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之三 壱岐郡川北村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

大正の記録は、この社の名が入れ替わった顛末を書いている。延宝四年(1676 年)の夏、国主の松浦鎮信が命じて式内の社を査定させたとき、任にあたった橘三喜は考証に努めたものの、本来の社号の多くが本地垂迹の呼び名に覆われていて真相をつかめなかった。そこで兵主の名を可須郷の惣廟である聖母大明神に当て、同時に古来の聖母大明神を西間郷川北村の惣廟である日吉山王権現に当ててしまった。それに合わせて聖母大明神の鳥居の石額を日吉山王権現へ移し、兵主の石額を新調して取り替えたという。編者の後藤正足は、聖母宮の祭神が軍神であるから兵主の額を掲げたという筋は首肯できるとしても、聖母の額を川北へ移した理由は何も伝えていない、と書いている。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第九節 田河村神社誌。当方が現代語に起こしました

二十四座との対応

延喜式神名帳(927 年)に載る、この島の二十四座のうち、この社は次の座に挙げられています。千年前の目録がいまのどの社にあたるかは、江戸から明治にかけての考証書でも分かれています。

出典: 太宰管内志 / 神社覈録 / 特選神名牒 (国立国会図書館デジタルコレクション)

祭神から社を引く: 素盞鳴尊を祭る社(22 社) / 大己貴命を祭る社(16 社) / 事代主命を祭る社(5 社)

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