スポット
長峰天満神社
- エリア
- 湯本湾周辺
- カテゴリ
- 歴史・文化、神社
- 所在
- 長崎県壱岐市郷ノ浦町
例祭月: 3月
この社について
長峰の天神ノ辻にある村社で、菅贈相国(菅原道真)と吉祥女を祭る。大正五年(1916 年)三月に無格社の高峰神社を合祀し、伊弉冊尊・素盞鳴尊・菊理姫命を加えた。『神社帳』には「クボノ辻の天満宮。本社は昔からのもので、勧請した年数はわからない。宝殿と拝殿があり、定例の祭は八月二十五日」とある。『式社沿革考』は、古い記録が国片大明神の位置を長峰村の有安としているのだから、有安の森ノ浜にある国片大明神こそ旧地であって、それを同じ村の惣社である天満宮へ移したのだと説く。造営では慶長十二年(1607 年)と寛文二年(1662 年)に宝殿を建て替えた記録が残る。『吉野氏系譜』は、吉野九郎太夫藤原末春が天文二年(1533 年)に長峰天満宮を再興し、吉野甚五左衛門末秋が天正二年(1574 年)十二月に御殿を再興したと伝える。元文五年(1740 年)八月には遷宮があり、祠官は松本宮内であった。藩主の崇敬が厚く、祭日には代参として馬廻り衆が参向し、造営のたびに白銀五枚を献じられた。
大正の記録では
遷宮の翌月に社が焼けた一件を、大正の記録は書き付けごと写している。元文五年(1740 年)八月二十四日、長嶺村の天満宮の遷宮に祠官の松本宮内と松本勘頭が殿役として出勤したが、九月八日の昼に焼失した。宮内と庄屋の斎藤奥右衛門がまず口上で勘頭方へ知らせ、その夜に書状が届く。翌日、免方廻りで住吉村に泊まっていた郡代の高橋治部右衛門と土肥伊左衛門に対面して届け出て、宮内には遠慮を申し付けたことも伝えた。のちに土肥から、この件は平戸へ申し遣わして吟味するが、祭礼の時分で社役に差し支えるから宮内の遠慮は差し免じてよい、と書状が来たので免じたという。十一月二十八日の平戸の御城の竈祭への出勤は、宮内が年番なので社家一同を差し下してよいかと尋ね、別条ないと答えを得ている。