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スポット

鏡岳神社⁠‍‌​​​‌​​‌​‌​​‌‌​‌

エリア
郷ノ浦港周辺
カテゴリ
歴史・文化、神社
所在
長崎県壱岐市郷ノ浦町
駐車場
あり

例祭月: 10月

地図: 地理院タイル(国土地理院)。
出典: 壱岐観光ナビ / 当方確認 8/18 22:47

この社について

初山の東触、花川にある村社で、もとは鏡嶽三所権現と呼ばれた。天忍穂耳尊と伊弉諾尊と伊弉冊尊を祭る。本社は東嶽に、中宮はその南西に、北山宮は北の山に鎮座し、三つあわせて三社権現ともいう。中世に桜江村の彦兵衛が神鏡を祭ってから鏡嶽権現と呼ぶようになったと社記は伝える。壱岐十七社の一つ。慶長十四年(1609 年)の宝殿改築の棟札には日高玄蕃が署名し、玄蕃は鎧一領を献納して百日のあいだ参籠したという。社領は二石で、元和三年(1617 年)の藩主隆信の寄進状が残る。正保年間の地震で上宮の社地が崩れたため、慶安元年(1648 年)に今の場所をならして移した。貞享四年(1687 年)には、参拝に七日以上の潔斎を求める慣わしを祠官が京都の吉田家に訴え、帰国してこれを改めたと社家の文書にある。例祭は十月十九日で、大神楽を奉納する。境内は三〇九〇坪。

出典: 『壱岐国神社誌』(1941 年)/ 『長崎県壱岐石田郡村要覧』(1894 年)。当方が読んで書き起こしました

江戸の記録では

文禄元年(1592 年)、朝鮮へ渡る軍船が逆風で初瀬浦に幾日も留まったとき、兵が社前の崖から石礮を投げ落とした。里ではやむなく神体を初山の西八幡宮へ移し、氏子八人に昼夜守らせ、軍が帰ったのちに本社へ戻した、と幕末の記録は伝える。投げ落とされた一基はのちに探し出して社のかたわらに置いてあった。社地の移り変わりについては、この記録と上の解説とで年が食い違う。名勝図誌は、元禄十三年(1700 年)の二月から三月にかけての大地震で嶽の上の社地が崩れ、六月から今の場所をならして造営を始め、八月に上棟したと記す。上の解説が挙げる正保年間の地震と慶安元年の移転とは年が合わない。同じ出来事の年違いなのか、別の崩落と造営なのかは、この二つからは決められない。祭りは二月十五日と九月十九日の二度で、近くの浦から茶店が出て市が立ち、国じゅうの老若が集まった。

幕末までに書かれた記述です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐名勝図誌』(1861 年) 巻之十二 石田郡初山村之部。当方が現代語に起こしました

大正の記録では

神鏡がどのように得られたかを、大正の記録は社記から詳しく写している。彦山を信じて夫婦で詣でていた桜江村の彦兵衛が、年老いてからの参詣の夜に夢のお告げを受け、初瀬浦の白瀧の中岸にある小松の枝に同体の鏡を掛け置くから執って東嶽に新殿を造れ、月に一度あるいは日に一度参れば彦山に詣でるのと同じだ、と告げられた。帰って白瀧へ行くと巌間に小松が一株あり、その枝に円鏡が一面かかっていたという。瀧の高さは二十余間で人の通えない所であった。夫婦の没後、その子が権現の夢想を蒙って父母の石龕を作り、社の石階の左右に立てて縁日ごとに供えたと伝える。彦兵衛が鏡を仰ぎ得たのは二月十五日で、以来この日の参拝が多いとも書かれている。慶長十二年(1607 年)調査の諸社家田畑屋敷帳には「初山村鏡嶽権現田二反七畝十三歩、長田氏」とある。

大正十五年(1926 年)に刊行された記録です。いまも同じものがあるとは限りません。

出典: 『壱岐神社誌』(1926 年) 第二編 第十二節 初山村神社誌。当方が現代語に起こしました

祭神から社を引く: 伊弉冊尊を祭る社(16 社) / 天忍穂耳尊を祭る社(8 社) / 伊弉諾尊を祭る社(7 社)

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